6/9

曇り、のような晴れ。雲がどんどん厚く大きくなって、わくわくする。日中はじめっとした日が多くなってきた。


火曜の営業日に取材を受ける。どうしてコーヒーを始めたのか、という質問。

1. コーヒーを焼くことが楽しくてしょうがない。上手くできると忘れないうちに焼きたくなるし、失敗するともう一回焼きたくなる。

2. 自分のなかですぐお金にできるものだったこら。

3. みんなコーヒーをもっと飲まなくなればいい、と思ったこと。

3.はいつも誤解される。言ってることとやってることが逆を向いているように聞こえるからだ。そして、僕はコンビニコーヒーのことを引き合いに出した。1年も経たず1億杯を突破したと幟にでたとき、「その分の豆はどこからやってきたんだ?」

別の豊かさを選ぶ、その選択の場をその人のなかに増やしたい。変えるべきは生産者や提供者ではなく、消費の概念なのだ。で、いつのまにか取材の話がお悩み相談室のようになって、僕は楽しかったけどどうだったのだろう。


という話の後で、次の夜話をしているとコーヒー好きのお客さんが

「コンビニのコーヒーって殆ど利益ないんですって。100円で、利益なんて10円とか。」つまりは客寄せなのだと。「すごいねぇー」と言うと、「でも10円でも100億杯売れたら、1000億ですよ。凄くないすか?」すごい。昨日の話はできないなぁと思って黙っていた。


僕はやはり概念を変えたい。「君の言ってることは全うだ。でも、それを言ったら社会は回らない」何度も言われる。

でも、それなら回らない社会のほうを変えるべきで、全うな方を排除するのはおかしいんじゃないの?となるのだ。

スピリチュアルと想像力の話をする。

スピリチュアルと名指されるものは、なぜか精神的、神秘的なものに依ってしまうが、いま神秘的ってのは殆ど論理的に説明できない、くらいの意味でしかない。そして、論理的に説明できないような物事が世界には溢れている。世界(= 真理=自然、というのが僕のいまの感覚だけど)をどこの側面で切り取ってみるかが、論理や数学や芸術で、自分の世界との接触点を揺るがしてくれる人は、僕にとってはアーティストなんである。

精神的、というのは身体と切り離してしまったからなんかよくわからない。しかしいまの僕のなかでは想像力、スピリチュアルな心性を、もっと動物的な、即物的なものに近づいている。インプットとアウトプットの話だ。同じ入り口で、どこの出口を通るかのちがい。


帰って寝る前にiPhoneを開き、メッセージの返信を打っているとき(送るのは起きてから)、Facebookのタイムラインを眺めていて、無性に虚しくなって、思わず涙がこみあげてしまった。




評価の基準をこの社会の枠組のなかで設定すると零れてしまうような素晴らしいことをしている人たちが、沢山いる。

6/6

晴れ。大きな雲。午後から少し曇る。


シャンプーしなくなって4日。身体はもう何年も石鹸を使ってない。整髪料使ったらシャンプーしようと思っている。不規則な食事を、時間を見て規則的に食べることは身体にとっては別に規則的でもあるまい、と思って空腹を基準にすると、2〜3日もすればほっぺたがすべすべになった。お肌にいいの、おすすめ。


焙煎をしていると、原さんこら電話。お昼を一緒に食べる。そのときの会話のメモ。


記憶の話

臓器移植で記憶も移植される

臓器が記憶を保持するのではなく、記憶とつながるデバイスと考える、らしい


僕は記憶自体が今の記憶の概念は狭いと思っている。記憶はあらゆるところに、ある。


インプットとアウトプットの話

幽体離脱の構造への私見(アウトプットの齟齬)

整体とお祓い(右肩の黒いもや。二人は同じものを観ていた。それを表現するものが幽霊か整体か、要するにアウトプットの選択の差。数学と絵画、武道と文学、どれも同じ世界の別の側面を切り取る。しかできないとも言える)

催眠術の実験(インプットにアウトプットを限りなく近づける)

原さんのお母さんの虫の知らせ

予知夢で行動を変化しても運命は変えられない→ 1+1=1が最も美しい数式だって数学者には見えるから真理に違いない、と証明にいどんでいる、らしい。→「全てが決まっていて それゆえに完全に自由」だったか沢庵

予知夢。

Sさんのパンの神様からのバッグクロージャーという言葉

三脈をとること



人間の想像力は、動物が個が薄くゆるく繋がっているのに対して個が確立されて集団的には切断されている、繋がりを補填するために発達した力。山極総長によれば、ゴリラは集団から一旦離れると(不在)、2度と群れには戻れない。人間はいまここに不在ながら、存在を知っている(想像している)。

大海原で迷った時に想像された島を拠点にして方角を定める方法の話。この島は、限りなく実在に近く想像される(移動してしまったら意味がない)。動物の想像力に近い。つまり、人間の想像力に比べて、より身体的だ。


小説の話に摺り寄せるなら、今の社会で起きていそうなことを書くことは、この想像力を働かせることとは違ってくる。もっと身体的な、即物的な方向に想像力の重点を移動して、より自然で使われているものになるなら、社会の外に向かう。(探偵ナイトスクープで1番好きなのは四つ葉のクローバーの声が聞こえる女の子のはなし。あの声が聞こえなくなった人間は、想像力のバランスを今使われる方に重点を置いた。)


記憶、時間は直線に進むわけではないこと、横だけでない縦の広がり、捻じれ。

空間も同じ

11次元の理論が引き合いに。

お昼を食べながら、久しぶりにそんな話。2時間ばかり。

僕の焙煎へよ心算のはなしも。


テーブルにいたお客さんが怪しい顔して、あいつらなんの話してるんだ」と訝っていた。


なんでも、自分が既に知っていることで物事を判断して得るものはあんまないとおもう。物事をみるとき、判断され変化されるべきは、物事の方ではなく自分のほうだ。物事をみる、てのほそういうことかも。いま、眠い頭で考えている出まかせだけど。まず、「自分でも意識していなかったような」常識を疑うこと。

はっきりいって、みんなありとあらゆる常識に縛られている。それは自分一人で自覚することがあまりに難しいくらいの常識だ。そのことを、ひしひしと見せつけられることがままある。本当にそんなことまで、というところまで気づくことが始めにもなるのだけどな。





5/22

車の運転中、いろんなことが頭でポワッ、ポワッと水面に上がってきた泡が弾けて中から煙か蒸気がゆらゆら広がりだして、それぞれの煙だか湯気が混ざったりする。そのまんま思考がたゆたうまんまに任せる。


因果は、直線的に進む時間の中に生きている通常の状態のときに適応できるようになっている。という発見が突然降りてきたりする。

ある瞬間、時間が直線的でなく、ぼわんと広がったり捻れたりするのに出くわす。幽霊とか、僕には同じ場所の違った時間にいる(いた、じゃないところが重要なんだけど)人と、ばったり出くわした感がある。文庫本のページを別のページに差し込んでぺったり貼り合わせたみたいに。このとき、時間はもう直線的に進むものではないから因果が成立しない。原因と結果が同じ瞬間に現れる可能性もあるし、ある原因とは違う原因の結果がそこに現れる可能性もある。

幽霊が、なぜ怖いものとして人の前に現れてくるのが多いのか、不思議だ。見える人に聞くと「ただ、いるだけのいっぱいいるよ。」という。それに守護霊とか霊が助けてくれた、とかそんなのもいっぱいあるし、ホラーのジャンルとして確立されてるからそう思うだけなのかもしれん。


前世は、違う時間のなかに全く同じ「わたし」が違う器に入ってるわけではない。それは、「わたし」と同じ別の誰かか、全なる「わたし」の一つ一つかわかんないけど、がいるわけで、「あなたの前世はアレコレです」と言っても、今のわたしと同じじゃない。違うカップに入ったコーヒーは、なかみの成分は同じコーヒーだけど形や量や色みも変化するし、味もカップによって前面に出てくるものが変わってくるように、変わる。

てか、時間軸のずれる前世があるなら、空間軸のずれもあっていいんじゃないかとも思う。見た目も思考も全然違うけど、似てる人。その一つの極がドッペルゲンガーになるのか。でも、これは僕の時間、空間に対する認識が不十分だからそう思うだけかもしれない。


想像力って、あり得ないようなことを思い描くこととは違う。野生の生き物が、自我がない故にまるで集団が一つの生き物のように振る舞う、その感覚の共有みたいなのを、自我を持って個として分離しすぎた人間がシンパシーを補填するために進化した力。だから、想像されたことは、この世界に全然あり得ないことは想像されない。そもそも身体は自然であって、やっぱり繋がっている。だから共有する力は残ってる、でも個が強くでる、それで想像力でバランスをとる。エネルギー保存の法則。ネットやニュースの情報に左右されて、自分の身体の言うことを聞き逃すことは、だからバランスを崩す。人におかしいって言われても、気にしないほうがいい。「おかしい」というのは、大体言った人自身の感覚より、常識とか普通という顔のないモノを通して発せられるものだからだ。


ついつい空き家とか、形のいい家屋とかに目がいってしまう。飯田のなかで住むならどこがいいかなぁと、考える。土が、木があるところにしよう。絶対、そうしよう。同時に、でも山のほうじゃなくて街がそうなったらいいなぁ、と妄想する。軽井沢とか、観察しに行こうかなぁ。


右手ばかり日焼けしそうだ。


ツツイさんに行った帰り、ふと昨日京子さんが淹れてくれたヤーコンの茶のことを思い出した。内臓と内臓を結ぶところを綺麗にしてくらるんだって、私は調子悪いときに飲むと苦くて、香りで顔に近づけるのも辛くなるんだ。これは、優子さんも同じで漢方を調合してもらったとき、最初は何とも苦くて飲みにくいもので、僕も飲ませてもらったら、旨くはないが言うほど苦くもなかった。それが、次第に飲み慣れて苦味がきえ、甘みを感じるようになった。すると先生は「もう飲まなくてあいいですよ」。それと同じことなんだろう、大きめのカップに並々と注いでくれたヤーコン茶ははじめ、渋みや苦味がちょっときついくらいだったそれが、飲み終わる頃には甘さが前面に出て飲める。

甘さ。身体の調子がよくなると甘さを感じやすくなる、ということだ。「良薬口に苦し」。健康になればくすりを飲む必要がない。甘さを感じれれば身体の調子が良くなったということで、だから僕らは甘いものを食べると多幸感を味わうのかもしれない。つまり、甘いものを食べ過ぎると良くないのは、医学的には勿論糖尿とか生活習慣病とか疲れやすいとかになるわけだけど、要は身体を誤魔化して調子が良いと錯覚させてしまうことになるからであーる。砂糖を人工甘味料にしても、味蕾が甘さを感じると糖分を摂取したと脳が誤認してインスリンを分泌してしまうように、甘いものを食べると、本当は良くなくても、まるで身体の調子が良いと誤認させてしまうのだ。

そう考えると、疲れたときに甘いものが嬉しいのもわかる。これはすごい発見じゃないか、こんなこと言ってる人、聞いたことないぞ。知らないだけか?


久々に林っさんに会ったけど、やっぱり凄い。別れて家路に着くと必ず、自分の堅さをまざまざと感じさせられる。なんというか、僕は一緒に遊んでもつまんないと思われてるんじゃないか、と訝ってしまう。彼はすごく、いい。たまには喜ばせてみたいものだ。


などということを、車に乗っているときに浮かんでくるのだった。




5/18

晴れ。昨日の雨の残滓か、午前中はまだ涼しさが辺りにあったの正午にもなると暑い。 

 
昨夜、喫茶営業から帰ってながなが書いた日記に飽きて、そのまま寝てしまったら真っ白になっていた。それを一言で言うなら、同じ穴の狢。それだ!一言で言えることは一言で。
『アイアンマン』『バケモノの子』を観る。このときのグィネスが、なんでかすごい好き。胸に穴が空いて平気なのがすごい。『バケモノの子』は、一歩後退した。「サマーウォーズ」は駄目で、「雨と雪」がすごく良かったので、交互にくるのかもしれない。時かけも、好きだ。雨と雪のとき、本棚と同様に服装にも
かなり演出が施されていたので注目してみると、「衣装 伊賀大輔」となっていた。でも、服装の重要性も今回は一郎彦の頭がどうみても帽子だ、くらいでアニメーションを「観せる」気の割き方が緩くなってみえた。最初炎の場面も、サマーウォーズのオズとの相性もあったけれど、そっちのがいい。

一日に一度はアピチャッポンの映画のことを考えている。

夜、仕事のお供に「熊楠書翰」を持ってきて、読む。驚くべきは、まず手紙の長さ。

5/15

晴れ。吹きさらしの風が強い、この風は松本であって飯田ではない。でも同時に吹いていた違う風が全く同じ強さで同じ方角から吹いていました。このとき、松本の風と飯田の風は同じ風か、違う風か。天気に個性はない、そう言い切っていいだろうか。


前の日は早く寝ようと思ったものの、家に戻って布団に入ると2時を回っていて、起きると9時だった。あり合わせのブレンドでコーヒーをポットに淹れて松本の、はじめて古市に。

ラトビアのお姉さんのテントで木彫りと思った鳥の玩具を掴むと「ピュイ!」と鳴いておったまげると、笑っていた。「これ下さい。」というと、「このなかで私一番のお気に入りデス」1960年頃のソ連時代のものだそう。2500円。それから下諏訪の散髪屋さんからプリミティブな土の人形を買う。こっちはコロンビア。創作の欲望を突つかれる感じ。


梶間くんや佐藤さんと落ち合って、映画の前に昼飯にカレー屋に入る。ビールも幾つかのメニューも切らしていて、看板メニューのカレーもこれから作るという。最近、こういう時はモードを切り替えて楽しくなる。なんというか、店というより寮のなかの食堂といった感じ。金を払って食事をする雰囲気じゃない。なんでかなぁと思うと、客席にBGMがかかってないのに、厨房だけポータブルラジオらしい音質の音楽がかすかに聞こえていた。急におかしくなった。スキー合宿に来たサークル仲間といった体。

2時からアピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』、続けて『世紀の光』を二本立てで。やっぱり、大好きだった。

再生ボタンが見えたり、操作室の声が聞こえたりで映画館ではない、つまりアマチュアっぽさが少しあったので、『光りの墓』が始まった途端音だけ流れているのに画面が暗いままなのを、あり得ると思いながら、これミスだったらいつまで続けんのかなぁと思ったら、結局そういう始まりなのだった。これは、最後のジェンが目をかっぴろげてる場面を観れば納得。

二作とも、やっぱり随所で笑いが止まんなくなる。特に『世紀の光』のあの場面。と言えば、観た人は絶対に同じところを思い出すだろう。『世紀の光』がはじまって、(最初の固定されてショットに声だけ入る、あれ最高)わりと展開が早く進むのでいつもとテイストが違うのかなぁ、と思ったら、一緒に行った人はみんな、こっちのほうが分かりやすいと思ったようだった。本当に一瞬だけど、二度、寝落ちして夢を観た。それが全然後悔しないどころか、貴重な体験だったなぁと思える面白さ。

とにかく、真面目さからギャグまで振り幅が広すぎて凄かった。この内容の映画であんなポップな選曲をされるなんて。あんなに長い時間、野糞する人のお尻をみんなで観る時間もない。「ブリスフリー」の勃起していく場面もそうだ。

思い出しはじめると、とめどなくなる。飯田でもやってほしい。本当に、映画を体験する新しい体験を齎される。

観終わったあと、コーヒーを飲みながら映画の話。はじめはみんな、分からないわからないと言ってるものの、話はじめると色々と話題は尽きない。きっと、「わからない」という時、「わかる」ということが製作者の意図や主張や、物語の展開など、学校の勉強での問題に対する解答の意識に僕らが強く結びつけられ過ぎているのだ。つまり「正解」が一つしかなく、それを探そうとしてしまうのだろう。そのとき、コーヒーを飲みながら語った、自分のなかで強く揺さぶられたものや鮮明に残る場面は、忘れられる。ほんとうは、そっちこそ大事なのである。「あのまま帰らずに、話して良かったわ」

本当に、その通りだなぁ。と思った。ていうか、上映会をしたときはいつも、そうしたいと思っていたんだった。帰ろうとしたら自分、アホ。

いつも、夜の高速を黙って帰る時間が、いつまでも続いたらいいなと思う。この時間のために、ずっと遠いところに行ってもいいな、と帰るたんびに思うのだった。



5/13

快晴。


ケンジさんと久保田さんともに勧めてくれた『父、帰る』を観た。映画は小説とは違うやり方で見せる、見せ方を知ってる脚本だ。井上さんは昔、「小説は全部文字で想像させなきゃいかん。でも映画なら、言葉以上に、表情で一発だ。だから映画のほうが小説より優れている。」と言って憚らない。僕は勿論、その意見には賛成できないどころか、井上さん自身おなじ口で「映画は、脚本が全てだ(この脚本は、演出から照明から音楽から、全部ひっくるめてしまっていたのだから、結局全部が全てだ、て言ってるようなもんだ。ただ、映像が抜けてるという一点で間違ってる)」と言うのだから反論するのも脱力ものだったが、それは一面では的を得ているのだろう。明日、ツタヤに返さずにまだ繰り返し観たいその『父、帰る』のなかで映る美しい晴れた空の青の青さは、なかなか、ない。日本の空は高すぎるのか、白さが勝っている。


焙煎をして、コーヒーラボのフライヤーを描いて、ベラの原稿、もいっこの原稿、ツツイさんのHPの下書きもする。図書館に行って肉の話を描いてるなかで飯田のおたぐりの事を少し触れると、なんで馬肉が飯田に根付いたのか気になってきたところで、新刊の棚で「日本人と馬の文化史』なる本を見つけてしまった。

肉のことはほとんど触れられてないが、それを読むうち、やはり馬は東北、それに西日本以南で盛んだったようだ。徳川家康が秀吉の政策を踏襲して年貢として米を納めさせたことと用水の技術の進歩によって、内陸部の扇状地や台地に耕田が広がったらしい。ということは、日本は稲作文化というけれど、山間部ではむしろ、稲作は江戸以降に主な耕作となったということだろうか。「飢饉のとき、上流の者ほど飢えなかったんだって」とたろう屋さんが先週言ってたことともつながる。龍山堂主人というひとの話が、また面白い。江戸に入り武士は兵農分離のせいで馬を飼う余裕がなくなってしまい、馬術の腕は衰えるし、飼うためには都市部から離れなければ餌も寝所も人夫も賄う銭は作れないし、というまるで今みたいな話のなか、龍山堂主人は小屋もなにも皆、自分でDIYして、馬が草を喰める土地に移り、馬糞を農民に売り、と常識といわれるものを換骨奪胎して、自身の生活を作り替えていったのだった。いつの時代にも同じようなことを考えて実行している人はいたのだ。それを知って、僕はやっぱり間違ってない、と思えた。龍山堂主人の『厩馬新考』、調べてみよう。

とかく、弥生から稲作が始まったといって、一斉に皆が右ならえしたわけではないのだ。なんというか、本当に人間は、自分が思い込んでいることは、自分が思っている以上に多い。そのことは、思い込んでしまっているうちはわからない。だから、つねに「これはおれがただ思い込んでるだけじゃないのか」と立ち止まる必要がある。常識なんて、つい最近の、しかも狭い範囲のものでしかないのだ。「自分はそうじゃない」と思っていても、全然、自由になれてないぞ。


『アベンジャーズ』『父、帰る』『ホドロフスキーのDUNE』を観る。

ムーミン谷の彗星』『脱獄計画』『伯爵夫人』読み終える。


あー、才能が欲しい。なにか、身体の裡で渦巻いているものがあるのに、それに形を与えることができないもどかしさが、ずっとある。でも、そのためにはとにかく続けることでブレイクスルーがある、という直感はあるので、そのための体力を養う。で、再び走り始めた。甘いものを抑えると疲れにくくなる、というので試してみよう。明日から(笑

5/5

まとめて日記をつけようとするとき、ただの記録をつけるだけなら羅列するだけでいい天気まで、どんな風に書いたものか悩むのは、でも大したことじゃないので、適当に今日はいい天気だったから、今日の天気として晴れとする。一昨日の朝方の風雨の激しさは、この古い家が少しくらい飛ぶかと思った。少し怯えていたことをここに告白しますが、同時に明くる朝の青々とした晴天と、まだ激しさの余韻を残した心地いい強風は、季節の境目を直に感じてるようで結構、好きだ。台風一過の潔い静けさにも似ている。


1〜4日のアトリエ開放展、のんびりと出店させてもらえた。売上は目標の半分だったけれど、確かにそれはそれでがっかりなのだけど、まだまだ僕はそんなものだし、出店のときはいつも、全然仕事にいくという感覚がないから(そういってしまうと、実は火曜も労働をしているつもりがないところがあって、それはお客さんにも伝わるであろう。労働を労働と思わないでできる人、労働を労働でないと誤魔化すことで乗り越える人、それに労働を労働と意識した途端にやる気がなくなる人。色んなひとがいるのであった。しかし、働くとはどういうことか。僕はそのことを考えている人に、実はほとんど出会えていないことも事実である)、たろうさんが気にしてくれてとても有難く、同時に申し訳なく、売れればとても嬉しいけど、そこは僕にとって問題にならない。お金がないことと、稼げないことが同じ問題とは思えないのだろう。

呼んでもらえなければ、ただ何も無かったわけで、それだけでもう全然違う。それにそのうち、この目標に勝手に到達するだろうという思いもある。自分の記憶のなかにあって、さらにそこから想像する美味しいコーヒーを淹れる機会が増えることがいいことじゃなくて、なんだというんだ。だから、儲かったらラッキー。と思う程度なんだな僕は、ということに気付いた。

たろうさん達との話も、とても楽しかった。そして、飲んでくれた人に感謝しています。まぁ、そのなかの少しは「ほら、買ってでも飲んでよかったでしょ?」という気持ちもあるのだが。


新潮4月号の蓮實重彦『伯爵夫人』を読んでいる。80歳を迎えた老人がこんな好戦的で、挑戦的で、緻密で大胆で、面白いもの書かれたら立つ瀬がないよなぁ、と思った。深くて広い知識と教養をいやらしい程にさらりと、でも単語の一つ一つまで選び取っているのが、浅学の自分にもわかるくらいに、まるでその場面を本当に観ているかのような流麗な流れで書かれていて、でも完全にフィクションであることが徹底されている。文章を読んで勃起しかけた。めちゃめちゃ面白い。並んでヤンソンの『ムーミン谷の彗星』を読む。スナフキン先生!


ベン・アフレック『アルゴ』、タルコフスキーノスタルジア』、『境界の彼方』全話、『ブンミおじさんの森』を観る。15日の『光りの墓』『世紀の光』は外せないけど、GW中のクストリッツァも観にいければ良かった…。松本が、遠い。


寛大と、ピクミン3のプレイ画面を観てのんびり。