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車の運転中、いろんなことが頭でポワッ、ポワッと水面に上がってきた泡が弾けて中から煙か蒸気がゆらゆら広がりだして、それぞれの煙だか湯気が混ざったりする。そのまんま思考がたゆたうまんまに任せる。


因果は、直線的に進む時間の中に生きている通常の状態のときに適応できるようになっている。という発見が突然降りてきたりする。

ある瞬間、時間が直線的でなく、ぼわんと広がったり捻れたりするのに出くわす。幽霊とか、僕には同じ場所の違った時間にいる(いた、じゃないところが重要なんだけど)人と、ばったり出くわした感がある。文庫本のページを別のページに差し込んでぺったり貼り合わせたみたいに。このとき、時間はもう直線的に進むものではないから因果が成立しない。原因と結果が同じ瞬間に現れる可能性もあるし、ある原因とは違う原因の結果がそこに現れる可能性もある。

幽霊が、なぜ怖いものとして人の前に現れてくるのが多いのか、不思議だ。見える人に聞くと「ただ、いるだけのいっぱいいるよ。」という。それに守護霊とか霊が助けてくれた、とかそんなのもいっぱいあるし、ホラーのジャンルとして確立されてるからそう思うだけなのかもしれん。


前世は、違う時間のなかに全く同じ「わたし」が違う器に入ってるわけではない。それは、「わたし」と同じ別の誰かか、全なる「わたし」の一つ一つかわかんないけど、がいるわけで、「あなたの前世はアレコレです」と言っても、今のわたしと同じじゃない。違うカップに入ったコーヒーは、なかみの成分は同じコーヒーだけど形や量や色みも変化するし、味もカップによって前面に出てくるものが変わってくるように、変わる。

てか、時間軸のずれる前世があるなら、空間軸のずれもあっていいんじゃないかとも思う。見た目も思考も全然違うけど、似てる人。その一つの極がドッペルゲンガーになるのか。でも、これは僕の時間、空間に対する認識が不十分だからそう思うだけかもしれない。


想像力って、あり得ないようなことを思い描くこととは違う。野生の生き物が、自我がない故にまるで集団が一つの生き物のように振る舞う、その感覚の共有みたいなのを、自我を持って個として分離しすぎた人間がシンパシーを補填するために進化した力。だから、想像されたことは、この世界に全然あり得ないことは想像されない。そもそも身体は自然であって、やっぱり繋がっている。だから共有する力は残ってる、でも個が強くでる、それで想像力でバランスをとる。エネルギー保存の法則。ネットやニュースの情報に左右されて、自分の身体の言うことを聞き逃すことは、だからバランスを崩す。人におかしいって言われても、気にしないほうがいい。「おかしい」というのは、大体言った人自身の感覚より、常識とか普通という顔のないモノを通して発せられるものだからだ。


ついつい空き家とか、形のいい家屋とかに目がいってしまう。飯田のなかで住むならどこがいいかなぁと、考える。土が、木があるところにしよう。絶対、そうしよう。同時に、でも山のほうじゃなくて街がそうなったらいいなぁ、と妄想する。軽井沢とか、観察しに行こうかなぁ。


右手ばかり日焼けしそうだ。


ツツイさんに行った帰り、ふと昨日京子さんが淹れてくれたヤーコンの茶のことを思い出した。内臓と内臓を結ぶところを綺麗にしてくらるんだって、私は調子悪いときに飲むと苦くて、香りで顔に近づけるのも辛くなるんだ。これは、優子さんも同じで漢方を調合してもらったとき、最初は何とも苦くて飲みにくいもので、僕も飲ませてもらったら、旨くはないが言うほど苦くもなかった。それが、次第に飲み慣れて苦味がきえ、甘みを感じるようになった。すると先生は「もう飲まなくてあいいですよ」。それと同じことなんだろう、大きめのカップに並々と注いでくれたヤーコン茶ははじめ、渋みや苦味がちょっときついくらいだったそれが、飲み終わる頃には甘さが前面に出て飲める。

甘さ。身体の調子がよくなると甘さを感じやすくなる、ということだ。「良薬口に苦し」。健康になればくすりを飲む必要がない。甘さを感じれれば身体の調子が良くなったということで、だから僕らは甘いものを食べると多幸感を味わうのかもしれない。つまり、甘いものを食べ過ぎると良くないのは、医学的には勿論糖尿とか生活習慣病とか疲れやすいとかになるわけだけど、要は身体を誤魔化して調子が良いと錯覚させてしまうことになるからであーる。砂糖を人工甘味料にしても、味蕾が甘さを感じると糖分を摂取したと脳が誤認してインスリンを分泌してしまうように、甘いものを食べると、本当は良くなくても、まるで身体の調子が良いと誤認させてしまうのだ。

そう考えると、疲れたときに甘いものが嬉しいのもわかる。これはすごい発見じゃないか、こんなこと言ってる人、聞いたことないぞ。知らないだけか?


久々に林っさんに会ったけど、やっぱり凄い。別れて家路に着くと必ず、自分の堅さをまざまざと感じさせられる。なんというか、僕は一緒に遊んでもつまんないと思われてるんじゃないか、と訝ってしまう。彼はすごく、いい。たまには喜ばせてみたいものだ。


などということを、車に乗っているときに浮かんでくるのだった。