2/23 覚書の走り書き

二元論的思考には、常に警戒心を持っている。

再開発、新しい集落の/仕事のあり方、革命。たとえどんなお題目が唱えられようとも、そこに必ずつきまとう「食べれなければ、しかたがない」。どれほど、その変革が素晴らしく見えようとも、それで生活ができなければ早晩、僕らは再び、いまの社会構造の一つの車輪になることを選ぶだろう。

「生活のために」、これは呪いの言葉だ。原発がなくならないのだって、もとはここのような気がする。あれはただの環境の問題なんではなくて、多分に経済の問題だ。リニアだって、そうだ。

だから僕はむしろ社会を、世界を変革するよりも僕ら自身の「生活」への思い込み、呪縛を解いていくことのほうが根本的、かつ実際的な革命なんじゃないか、と思っているのだ。もし生活するためのお金がいまの半分で済むとしたら?お金がなければ手に入れられないと勘違いしているライフラインを自分でなんとかできると知ったら?(お金がなければ、というのは裏を返せばお金があれば何でもできる、という思考とも繋がっている。故に、この何でもできるという考えも勘違いだ)

そうなれば仕事への姿勢も変わるかも、そうすればもっと会社より自分を大切にできる(してもいい、しても平気だと思いやすくなる)環境ができるはずだ、それはまた他人への余裕も呼び込む。自分がやりたいことも、ずっとやりやすくなる。

そして重要なことは、その革命は自分の命を賭して為すものには違いないとしても、それは人生が変わったと後から思えばそうだったくらいのもので、こっちのほうが楽だし楽しいと思わせるようなやり方であることが望ましい。水は低きに流れる。人間は、高潔であると同時に怠惰であって、理想的であると同時に便宜的で妥協的だ。その事実を覆い隠して「こうあるべき」という理想的な人物を置いて、それが当然のような規則を自分自身らに当てはめてしまうから苦しくなる。ダビデ像は理想像であっても、あなたの身体の本当の理想体型とは限らない、ということだ(それは、たとえば過去の日本においては「おかめ」が理想の女性だったことを考えれば、理想像だってその時代の産物にすぎないのだから)。

由理さんのブルキナファソの話。現地在住のお友達の車に同乗中、自動車の「底」がボコンと抜けそうになってしまって立往生し、修理を呼んできた2人組の男たちは道具らしきものも持っておらず、しばらくして「終わったよ」というので「大丈夫?」と聞いたら、

「しっかり縛っておいたから、大丈夫だろう」と平気な顔をして、しっかり代金をとって帰っていったそうだ。こんな話が今、同じ時間に存在している。この話を聞いて、僕の身体に涼しい風が吹いた。もちろん、それに付随するデメリット(という言い方がまず、嫌い)を引き受けなければならないといても、こういう自由の在り方もあるのだ。

スペシャルティコーヒー、という概念に対しての僕の疑問も同じところに端を発している。いい豆をいい値段で買えば生活が苦しい生産者もハッピーになる、というその思考自体が、ブルキナファソで自動車を縛るだけですむ緩さが人の思考にも及んでいる、その緩さを市場原理の思考に染めてしまうことに他ならないのではないのか?むしろ、現代人はコーヒーを飲み過ぎてるとは思わないのか?マイクロロースターといえども、一日に何十kgも焙煎し、それが幾つもある状況は異常ではないのか(非電化工房の藤村さんの話を思い出す。)?生産地まで足を伸ばして生産者たちの生活環境と触れることも素晴らしい、僕はでも、まず自分の足元を見つめることから始めることで起きる変化こそ、世界の変化なんだと思う。適性価格でコーヒー豆を買うことは、極端で穿った物の見方だとも思うけれど、いまの資本主義経済のなかでの価値に過ぎない以上、行き着く先はいまの我々となんら変わりないのではないか、その結果としての現在を果たして僕らは「ハッピー」だと感じているだろうか。それを押し付けるだけにならないだろうか。そういう思考なしにただハッピーとは僕には言えない、というだけのことなのだけども。

まずはいつでも問題にせざるをえない「生活する」、いや「生きる」こと、そこを見つめることからはじめること。むしろ、そこさえ自由にできるなら、どんなときでもいいような気がしている。

自分の「生きる」を知る、それは自分の身体を知ることではないか。

メンタリストが相手の心理を表情の変化や手の動きから洞察すること、それは心理が行動に現れているのではなくて(ここでも二元論的な落とし穴に嵌まっている気がするのだ。心理<>行動)、むしろ身体の動きが、ていうか身体こそ心理そのものであるってことではないか。

野口整体

身体は、自分に一番身近な「自然」である。

そこで、「森は考える」とも繋がる。頭だけでなく、自分の身体が思考していることを自分の思考として汲み上げられるようになること。

森は、社会の歴史とは違うかたちで歴史を持っている。遠山の二万年前のクレーターがもはや山と同化している、が、隕石が落ちたことの影響は間違いなく、ある。森の歴史を、身体の歴史を表現する言葉を獲得していないこと。それを探る。

2/15

曇り。午後、一瞬ひょうが降った。すると昨日の暖かさが嘘のように冷えた。

ライブに出たり(ひさこちゃんのハンバートハンバートは、「こんな風になるんだ!」という驚きで、あれは完全にひさこちゃんの歌だった。ギターは弾いてれば勝手にうまくなるし、とりあえず誰かに弾いてもらって歌ってるのを聞きたいなぁ。と思ったら、次はそうしろと言われたらしい。僕らは、まぁみねくんは寝そうだし相変わらずのバンドだったけど、チューニングがばっちりで良かった。カツノはどんどんうまくなる。歌(たとえば歌詞)が、自分の内側からとは違う外の歌が増えたらすごいんじゃないか、と思っている(虫喰い様が好かれるのも、そこにあるような気もするけどどうだろう))、そのあと遅くまで飲んだり(みんな朝早くて大変なのに、とても楽しくてなかなか帰ろうと言いたくない…)した。

久々にラボもやった。5人でちょっと寂しい…。でもその分、それぞれで淹れて飲み比べたり楽しくできた。これでまた家で飲む人が増えたらいい。新しい繋がりも。

コーヒーの焙煎をして、二つ原稿を仕上げる。ヤギで鈴木さんとばったり会う。鈴木さんが鈴木さんのこれまでの仕事を見せてくれる、なんと!こんなの作ってたのかー。すごい。最近読んでいる本の話になり、「表象をね」という話になって、「西洋と日本とアニミズムのようなものは同様にあったのだけど、違ったところは「森」があるかないかだった、という。」と聞いて驚いていま読んでいる『森は考える』を見せる。アピチャッポンを紹介し、熊楠とかで盛り上がる。『森は考える』はまだ一章の途中だけど、普段考えてることが書いてあるので、おれ天才じゃないかと思った。よくある。誰かの考えを自分が考えたかのように勘違いする、そう思えるのは他人の思考が血肉化した証拠だ、と前向きに捉えている。と、このことも『森は考える』には書いてあったが。

明日のためにパヴェをつくる。バジル、ペッパー、カルダモンをたっぷり。チョコをテンパリングしなくていいようにカカオでまぶすのだ。これなら失敗なしで出来る。

『シャーロックホームズ』『シャーロックホームズ・シャドウゲーム』『リトル・ミス・サンシャイン』『珈琲時光』『ストーカー(タルコフスキー)』『ものすごくうるさくて、ありえないほどちかい』『プラダを着た悪魔』『アンダーグラウンド』『マグノリア』最近、映画づいてる。

夜、寝る前に図書館で借りてきた小島信夫『残酷日記』を読む(書庫にいつから眠っていたんだろう、背表紙は布テープで補強されて白インクの手書きでタイトルが書いてある。貸し出しカードの袋に印刷してある図書館の電話番号は三桁のときのまま。カードを見ると、中学生の男の子から50代の主婦までわりと幅広い層に読まれていてなんか驚いた。そして、なぜかちょっと羨ましくなる。しかし、昔の貸し出しカードには氏名どころか年齢や職業まで記入する欄があるなんて今じゃちょっとら考えられない。昭和30年に出た本なので、当時中学生の森くんと杉本くんは、その後いつ読んだかはわからないけれど少なくとも75歳よりは若い、ということはもしかしたまだ地元にいて同じ図書館ですれ違ったりしているのかもしれない。小島信夫を読んでいる人がこの街にどれだけいるのだろう。そう考えるとなにか言い知れない喜びがわいてくるのでした)。どこかカフカっぽくしているような意思が見えて、今の(というのもおかしいけど)小島信夫ほどには小島信夫ではない時期もあるんだなぁ、と思った。すると『裸木』を読みたくなって本棚を探したが、どこに入っていたか忘れてしまって見つからなかった。

2/4

晴れ。2月を飛び越して3月みたいに暖かい日が続いている。

昨日焙煎した豆を袋詰めして、(手書きで全部袋に書いてることを気づかれてないことがあるなんて驚いた!僕の字も捨てたもんじゃないなぁ笑)試飲。昨日の焙煎で、今までのスランプを抜けた。1ハゼ前の火力を少し弱めて、それは豆の皺の具合を見てハゼが起きやすい強さは維持しつつ、1ハゼからの火力を変化させるポイントを少し早くすることでそこから緩やかに2ハゼ、深煎りまで持っていく流れが出来て豆に余計な負荷が減ったと豆が教えてくれたよう。浅煎りと深煎りで、そのポイントは変わってくる。浅煎りの酸味は豆の水分からくるものとは違うのか、調べることに。

そのあと、原稿の依頼を受けて打ち合わせ。とうとう執筆の仕事がはじまった!原稿料をもらって書くのは初めてじゃなかったか、多分そう。はりきって書こう。

はじめは木曜に、つまり今日行こうと思っていたが、思い立って月曜に東京へ行った。木曜だと『トロピカル・ラマディ』 一作だけで、しかも帰りのバスを逃す可能性がかなり高いけど月曜だと二作品観れる!ということで、渋谷のイメージフォーラムでアピチャッポン・ウィーラタクセン『ブリスフリー・ユアーズ』『真昼の不思議な物体』を観る。

13時からの『ブヒスフリー』の回、僕がアピチャッポンを知ったのは佐々木敦さんがどこかで『ブンミおじさん』に触れていたのがきっかけで、その一作で一気に持っていかれてしまって今回もアピチャッポンの映画のためだけに東京まで来たその上映で、見覚えのあるニットと髪と眼鏡が目に入って、まさしく佐々木敦さんではないか!!観る前から変な興奮の仕方(エンドロールが終わる前に席をたってしまい、列の真ん中にいたせいで追いかけることもできず、お礼を言えずに終わってしまった。言われても驚かれるだけだとおもうけど)。

『真昼の不思議な物体』、語られ始めたストーリーの続きを色んな人に好き勝手に作らせ、それをドキュメントにして組み込むことでフィクションとドキュメンタリーが融解、というか瓦解して剥き出しの混沌がスクリーンに映し出されていく(瓦解ということは、フィクションもドキュメンタリーも物語を語ることでは同じという点で、そのストーリーが、つながりの無い複数の人によって続けられることで自然と矛盾や幾つかの分岐が生まれていって、物語られる流れがぶつ切りになってポイっと投げ出されているように観えた)。『ブンミおじさん』にも『ブリスフリー』にも出てくる混沌そのものである自然であるところの森に分け入っていく、その森を違う様相で観た、と思った。

『ブリスフリー・ユアーズ』、ちんこが徐々に勃起していくところ、人がゆっくりと眠りに落ちていくところ、そんな場面を僕は初めて観た、もうこんなとこ撮る映画もないんじゃないか、と思うほどこころが揺さぶられた。それと、オーンが性交する場面に突然切り替わるのにはハッとした。そして、どれも森の中で行われる。もともとストーリーがないような中で、さらに冗長ともいえるくらい長く、じっと映される。そうやってストーリーを剥奪された性交は、普通の映画で描かれる性交が象徴するものとは根本的に違っていて、剥き出しのままであることで何かを表象している。ように観えた。「非言語的なかたちでの世界の表象」。だから、ただ勃起していく様子が、すごく美しくて心が揺さぶられた。

アピチャッポンの映画は、言葉にならないくらいのレベルの微妙さの感情を、言語ではない形で見せてくれる。安っぽい映画やドラマだと動き自体が言語的というのかパターンに嵌めるだけでどれだけ動いてもつまんなくなったりするのが、全く逆のことが起こっている、と書いたのはこれは筆が走ってるだけのように思えるのでここまで。

それでも一軒くらいは、と思ってずっと行きたかった下北沢のベアポンドでジブラルタル(ホワイトコーヒー)を飲んだら、どえらい美味しかった!オオヤさんがセカンドウェーブの思想を反映してブレンドしたと言っていたエスプレッソを飲んだ時以来のすごい衝撃。コーヒーで思想って表現できるんだ…そんな感じ。

日帰りの強行の翌日、喫茶でさっそくカフェオレの改良。でも眠すぎる。それからずっと、目のクマがひどい。

1/22

晴れ。

雪が全然降らない。

火曜日から日曜まで通しで喫茶営業。ほんとうは、営業という言葉を使いたくない。「君自身が持っている、「営業」という言葉のイメージを変えれば、別の良い面も見えてくると思うよ。」という声が聞こえてくるが、それでは僕には駄目なのだ。新しい言語を獲得しないと。それほど、言葉には強いイメージ喚起力というか、思考や行動をそっちに引っ張ってしまうだけの強さがあるのだ。

店先に数本の木が植わっている。暇な時間にハンドピックを済まし、テーブルでその木を観察。真っ直ぐに伸びて見える幹が、木によってはねじれるようにして伸びてる。幹から伸びる枝は下の枝と重ならないように同一直線上には生えてこない。その枝から伸びる少し細い枝は、地面と並行に伸びる親の枝の側面からイレーチにずれながら二次関数グラフの曲線のように上に伸びていくその姿が胴の長い恐竜の肋骨の骨格標本みたいにみえる。その子の枝から伸びるさらにこまい枝も隣同士が重なり合わないように生えている。それを観ていると、なぜか感動に近い、心が揺さぶられる感覚をうけた。そして、自分の手を見る。

木は、考えてそうしてるのではなく木の木たらしめてるところがそうするようにただ、そうなっている。窓に近い方はそれに合わせた枝の伸び方になる。木が考えてることは、考えるとしたらもっと違うことを考えているだろう。ぼくの指も同じだ。こうなろうと僕が考えてこの五本になったわけではない。人は普段認識できる意識の部分ばかりを取り上げてあぁでもないこうでもない、とやっているけれど、意識とか、なんて小さいところを取り上げて僕ら自身をわかったような気になっているんだろう。無意識や潜在意識というとき、心というどこにあるかわからないが身体の内奥にあるようなイメージを持って(潜在、という言葉からもそれをうかがえるだろう)いるけど、多分それって、この身体を身体たらしめてるもののことなんじゃないだろうか。

これは、ものすごい閃きだ!!

てか、最近はほんとにまず身体を取り戻すこと(でも何から?どこから?)が最重要な気がしている。社会的な問題とかもぜんぶ。今の社会構造を変えようと思ったら、身体への僕らの理解を変えるのが一番手っ取り早いような気がしている。という仮定をおくと、明治になって日本ががらりと変わったのは西洋の文化が持ち込まれたことより、それまでの日本の身体の動かし方、捉え方を剥奪されたことが劇的に効果を及ぼしたんではないか。と思えてきた。

1/16

晴れ。全然、雪が降らない。暖かい。

先週の月曜に風邪をひいたらしく、なんやかんやで休めずに引きずっている感じがする。寝て起きても目が痛む。うまく風邪が抜けるようになるように、足湯に浸かる。

午前中は来週一週間の喫茶に備えて焙煎。頼まれたものも幾つか重なって、まとめて焼いていく。日中が暖かいのでやりやすくて大助かりだ。明日明後日でガトーショコラと柿巻を拵える予定。うまくいきますように。

午後、ベラの原稿を仕上げる。今月はなかなか進まなくて難儀したけど、今までとちょっと違う感じになった。でもうまく繋がらなかった。字数が少ないと、どうしても小説が立ち上がる前に終わってしまう感覚があって、どこか落としどころを作ってしまいそうになっちゃう。たまに「本当にあることを書いてるの?」「設定は、自分の家のこと?」などと聞かれて、うーんイメージとして使ったりはしているけど、それがでも実際あることだけ書いても小説を書くつもりで書いているとやっぱり違うものになる気がするようになって、やっぱり創作です。というのが近いと思う。

熊谷くんから「1つだけ当たりの3つの扉の1つを選んで、残った2つの扉の1つ、必ず外れの扉を消去したとき、最初に選んだ扉より残った1つに変えた方が当たりになる確率が上がる」問題を聞いて、なんでだろうと忘れながら考えていて、幾日かしてお客さんと話していると

「1/3が1/2になるんだから上がるんじゃない?考えすぎだよー」と言われ、うーんでも腑に落ちない。で、カップを拭いてた時にあ!そういうことか、とわかった。納得しなくてよかったー。すっきりする。が、がそれを話すと松浦くんが「それね、僕テレビで見たから知ってるんだ」と言われ、なぜかすごいがっかりする。あの「2/3÷1/4ってどういうこと?」問題を自力で解決した時に「そんなのひっくり返せば計算できるんだからいいんだよ」とお姉ちゃんと全く同じことを言われた時と同じ感覚だ。「翌日と羽音って全く同じ字を書いてるんですよ!」と言ったら、「それ、こないだテレビでやってたよ」と言われた時の落胆。何年も前に話したことを結構ずっと考えていて、だから幾つかのことが並行して前面に出たり後ろに引いたりしながらずっと考えていて、それが先に進むとその人とまた話したくなって話すのだけど、当の本人が考えていたはずのことをもう止めていたりして驚くことがよくある。

閃きは、何もないところに落ちてくるわけではない。直感は、はじめから100%であるなんてものではなく経験と想像によって養われて鋭くなる。経験だけでもなく、それを何度も反芻し形を崩し、また構築し、その繰り返しをしていくうちに突然やってくる。だから、というわけではなく僕は考えるのが好きというか、ずっと忘れたりしながらも考えているから好きなのだろう。こういうこたがあるうちわかったのだが、考えるとは答えを出すことではない。考えるとは、一度答えが出ても何度も問いを立て直し、それを反芻し、思いも掛けないところまで自分を連れていってくれる、その運動の連続のことだ。考えすぎ、ていうのはだからそれは間違った問いを立てている、ということの言い換えだ。

バーン・アフター・リーディング』。『ソーシャルネットワーク』を観たあと、『はじまりのうた』を観ると驚くほど今の自分の同じところに響いてきた。どっちも、すごくいい。「山田孝之東京都北区赤羽」を観ている。山下敦弘監督って、こんな顔だったのか。勝手にもっとおじさんだと思っていた。「天然コケッコー」を読み直す。この漫画も、やっぱりすごくいい。映画の夏帆もかわいかった。

1/6

曇り。陽が差さないとやっぱり冬だと肩が少しすぼめるような寒さで、おかしいけど一安心。雪が全然降らない、駒ケ岳の上は白く積もっていた。

仕事始めはお客さんもパラパラと、落ち着いたスタート。新年のっけからすごい話を聞いた。100歳を超えたおばあさんが首を括ったという。新年が明けて、2日のはなし。一緒に暮らしていた家族の話では「わたしはもう、生きすぎた」と話してたらしい。ということは自らの意志でそうしたということだろうか。希死念慮とかじゃなく?老年性鬱病というものもあるらしく、それも聞いてみると認知症、せん妄と併発もするらしいけど、それはわからない。100歳を過ぎて生活苦や人生に絶望とか?ないとどうして言えるだろう、とこう書いていると思うけど話を聞いたすぐには「ありえない」という気持ちがふっと湧いた。恥ずかしい。

100歳を生きて、自ら命を絶つに至った経緯はどんなだったんだろう。夕飯を済ませて家族と別れ、自分の部屋に戻り、どのような行動を起こしていったのか。一瞬、天井からを想像したけれどそうではなく、箪笥や引き出しの取手を使用する。その知識はいつ持ち出されたのか。決断と行動するための体力(体力ってのは、生きる力ってこと)、100歳の老人のそれは今までの僕の勝手な想定の軽く斜め上にいってた。M君は、「そこまで生きたなら、孫もいたみたいだし大往生じゃないけど、生き様を見せてほしかったですね」と言った。気持はわかるが、それは僕らの勝手な希望でしかない。

天才の行動への僕ら凡人の無理解、あぁ恐るべきは全てを均してアスファルトするポピュリズムの力、なんつて。

生ききる、ということを思う。ドゥルーズの自殺が、そして、なぜか去年ふと「そうだよな。やっぱり自殺しかないな」と降りてきたこと。僕は希死念慮を知らないけど、それではないことはわかる。なんというか、思考の末にポンと出た答えみたいだった。野口晴哉の享年60歳を「なんだかんだ言って、やって、結局60で死んじゃったんだ」という人がいたが、その人は全然わかってない。椅子に座り、眠るように死んでいった野口晴哉は生ききったからの60歳だった。身体が決めた自殺、といっていいんじゃないだろうか。100歳のおばあさんやドゥルーズの決意の自殺と、野口の身体的自死を比べるのもどうかわからない、僕は野口のように死にたいと思う。でも、「自殺者が一番多いという日本は、文化的に最も進んでる」と言った井上さんの考えに僕は賛同しない。でも、かといって簡単におばあさんの死に対して勝手な想像を付与して自分の、なんていうんだっけ、それを満足させたいとも思わない。死について結論めいたものが簡単に言えたら、うっそー!?だ。とりあえず、時々このことは思い出すような気がする。

ベースキャンプで、ベラを置いてもらいに行きがてら、カレーとコーヒー。ブルータスの植物特集の14年のを繰っていた。イエルカの一番小さいストーブだけで、店内があったかい。薪ストーブ、すごい。帰りにチャオに寄ったら、みかん味のポテチがあった。苺のショートケーキ味のは、不味かった。

1/4

晴れ。

ダラダラ起きて、明日のパンを買いに行こうとすると寛大もいくと言うので一緒に買い物に行く。帰って、買ってきたパンを皆でつまむ。パンを独り占めする寛大、「マリオ、やってぇ」「タッタッタッ(とにかくただ走り続けるだけ、という過酷な遊び。走って喜ぶ人の気持ちは幼少期からもうあるものなのかもしれない)、するかぁ」「ダメー!でも、叩く!」「でも、いいんだもん」

イヤイヤ紀、絶頂。でも、手を上げるのも駄目とわかっていてやってしまった直後に「やってしまった!」感が湧いてきて、どうしようもなく自己嫌悪でまたイヤイヤが加速する、という大人の僕らとおんなじで、それに言語の獲得が少なくて、感情を人に伝えられないことよりも感情を正確に落とし込められずに「叩く!」とか「いいんだもん!!」という言葉にするしかなくて、そっちに引っ張られてしまい、そうじゃないのにそうなってしまう自分にまた苛立っているのがわかるので、ちょっと不憫。でも、この抑圧が本当に必要なのか僕にはわからない。こないだの保坂和志さんのトークでフロイトが抑圧が文化の成熟、だったか先進の社会だかに重要な働きを持っている、というようなことを言っていて、もしかしたらトークじゃなくてエッセイだったかもしれないけど、明治のころは外国人が往来を歩くと銭湯から、これも普通に混浴でみんな裸ではいっていて、物珍しさに往来まで見にくるのに服を羽織らず裸のまんま皆でてきた、らしい。それを文化ぎ未成熟だといっても物差しは明治以降に齎された西洋文化の物差しであって、未開や後進国という言葉を当てはめることで見失い、損なわれてしまうものは計り知れず大きい気がする。裸が恥ずかしいというのも、抑圧なのだ。こんな冬に素っ裸でちんちんぶらぶらさせてはしゃいでいる寛大を見てると思う。裸足で外を歩き出して皆に勧めていたとき、「なんで俺はじゃあ服を脱がないんだ?」と思って考え込んだことがあった、まぁそれはまたの話で、佐々木くんが見せてくれた、僕も気になっていた「natural fashion」というアフリカの部族のお洒落を収めた写真集のこととも絡めてぼんやりと考えたり忘れたりしている。単純に「服を脱ごう!」とかそういうことではないんだ、でも裸足はすごい気持ちいい。

寛大と遊んでいるとあっという間に時間が過ぎていて、出掛ける時間。甕さんの書初めに行く。取り出されたのは白川静の「字解」。そこでパッと開いて、パッと見えた一字を書くのです。で、パッとパッとやると出たのは「窮」。えー、むじぃ~。くるしむとか窮屈とか、極めるとかきわまる。可能な限り限界まですすむ。外に広げずに内にとどまりなさい、自ら外に働きかけずに自己の修練に向かう年である、ということをなんか方々のお告げで言われるこの頃。そういう年ということで、張り切って自分の中にダイブして1時間半あまり、延々と「窮」の字を書く。もしかしてら中学以来の習字かも。下手くそ。

なんか正月らしいことがしたいなぁと思って、折紙を折ってみた。猿とネコを見ながらおってみたものの難しくて、最後は適当。あっという間に夜中になっている。『横浜買い出し紀行』をなぜか久しぶりに読んでいる。僕もロボットになりたい。

それから小説の続きを少し書く。自分が書いているのにおかしいのだけど、なんというかたとえ自分の小説でも小説は自分とは別の生き物、といえばいいか、その書いている文章がいろんなことを教えてくれる。自分では思ってもいないことが書かれていく。

「たとえば桜もそうだ。狂い咲きといったって自分の環境の変化に反応して咲いてるんであって、暖かくなってるのに花が咲かないほうがおかしいので、狂い咲きの桜はむしろ正常だ。年中通していつもおんなじで、一年のサイクルも常に同じであるのが普通だと思っている人間のほうが、狂っているのだ。」

自分で読んで、なるほどなぁと思う。人に何かを伝えたくて書いてるのではなく、まずはとにかく世界を知りたい、世界と繋がりたい。小説を書いているとほんの一瞬、そういうときがくる予感があったりする、でも一つの文章になって固定されたものを読むと、

あまりの違いにがっかりする。本当に、もうがっかり。寛大といっしょだ。そうすると、小説が読みたくなる。読むために、書く。

でも、それより眠くなったらすぅっと寝れちゃうほうが、ずっといい。眠いのにもったいないもったいない、と遊び呆けていると次の日の朝がつらい。案の定、眼はまだ寝れるまだ寝たいときゅーっとなってる。