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まとめて日記をつけようとするとき、ただの記録をつけるだけなら羅列するだけでいい天気まで、どんな風に書いたものか悩むのは、でも大したことじゃないので、適当に今日はいい天気だったから、今日の天気として晴れとする。一昨日の朝方の風雨の激しさは、この古い家が少しくらい飛ぶかと思った。少し怯えていたことをここに告白しますが、同時に明くる朝の青々とした晴天と、まだ激しさの余韻を残した心地いい強風は、季節の境目を直に感じてるようで結構、好きだ。台風一過の潔い静けさにも似ている。


1〜4日のアトリエ開放展、のんびりと出店させてもらえた。売上は目標の半分だったけれど、確かにそれはそれでがっかりなのだけど、まだまだ僕はそんなものだし、出店のときはいつも、全然仕事にいくという感覚がないから(そういってしまうと、実は火曜も労働をしているつもりがないところがあって、それはお客さんにも伝わるであろう。労働を労働と思わないでできる人、労働を労働でないと誤魔化すことで乗り越える人、それに労働を労働と意識した途端にやる気がなくなる人。色んなひとがいるのであった。しかし、働くとはどういうことか。僕はそのことを考えている人に、実はほとんど出会えていないことも事実である)、たろうさんが気にしてくれてとても有難く、同時に申し訳なく、売れればとても嬉しいけど、そこは僕にとって問題にならない。お金がないことと、稼げないことが同じ問題とは思えないのだろう。

呼んでもらえなければ、ただ何も無かったわけで、それだけでもう全然違う。それにそのうち、この目標に勝手に到達するだろうという思いもある。自分の記憶のなかにあって、さらにそこから想像する美味しいコーヒーを淹れる機会が増えることがいいことじゃなくて、なんだというんだ。だから、儲かったらラッキー。と思う程度なんだな僕は、ということに気付いた。

たろうさん達との話も、とても楽しかった。そして、飲んでくれた人に感謝しています。まぁ、そのなかの少しは「ほら、買ってでも飲んでよかったでしょ?」という気持ちもあるのだが。


新潮4月号の蓮實重彦『伯爵夫人』を読んでいる。80歳を迎えた老人がこんな好戦的で、挑戦的で、緻密で大胆で、面白いもの書かれたら立つ瀬がないよなぁ、と思った。深くて広い知識と教養をいやらしい程にさらりと、でも単語の一つ一つまで選び取っているのが、浅学の自分にもわかるくらいに、まるでその場面を本当に観ているかのような流麗な流れで書かれていて、でも完全にフィクションであることが徹底されている。文章を読んで勃起しかけた。めちゃめちゃ面白い。並んでヤンソンの『ムーミン谷の彗星』を読む。スナフキン先生!


ベン・アフレック『アルゴ』、タルコフスキーノスタルジア』、『境界の彼方』全話、『ブンミおじさんの森』を観る。15日の『光りの墓』『世紀の光』は外せないけど、GW中のクストリッツァも観にいければ良かった…。松本が、遠い。


寛大と、ピクミン3のプレイ画面を観てのんびり。