12月13日

曇り。雨が降り出しそうな曇り空か雨が止んだばかりの曇り空のような天気が一日、続いていた。

日記をつけるとき、どうして天気を書くのか、小学校の時にはなんの疑問もなくお日様マークに色を塗ったりしていたけど、今になってそれがわかってきた気がしていて、まずは天気なのだ。まず、というか人間にとって一番わかりやすい変化だからじゃないか。なんのこっちゃだろうけど。僕自身が、まだ掴めていないのだ。でも、天気はつけるのが好きらしい。

ここのところ、自分のなかにある思考がうまく形に纏められない苛立ちと歯痒さがあって(歯痒さって、赤ちゃんが乳歯がはえるころに歯茎がムズムズするあれのことなのか、それとも大人で歯が痒くなるって、共通理解になるほどよくあることなのかもしれない)、この日記はそのためのものとして気持ちとしてはあるのに、いつも逃げてしまうので訓練のつもりで、とにかく書くだけ書こう。 頭のなかでは、複数の思考がぶわっと出てきて自分のなかではつながりあるものだが、順序立てて言葉にしようとすると毛糸玉の糸の最初のはしっこが見当たらないまま途方にくれる。 それはそうだ、常に考えているわけではなくって閃きはいつだって突然はじまるのだし、思考の流れも大抵は誰かの会話や本のなかのある箇所から数珠つなぎにコロコロ転がり出すのだから、ない最初を探して始められないというのは、当然のことなのだ。だから、とにかくどこでもいいから引っ張ってみること。思考は毛糸玉と言うよりも、噛みかけのガムみたいなもんと想像する。 震災があってそれはずっと自分のなかにのこっていて、それがひとつのきっかけで小屋を建てた。お金もなかったし、モバイルハウスの坂口さんを知ったのもその頃で、佐々木くんという身近な例と知り合えたこともあって、そんな色々が要因なのだが、1人で小屋を建てた。 出来上がってじぶんでおどろいたのは、これでしんさいがきてもいえはなんとかなる、とじぶんでおもったことだ。妄想が膨らんで、震災が起きたあと瓦礫の中から使えそうなもの、使いたいものを引っ張ってきて、みんなで思い思いに家を作る。僕が土・日の休日だけとはいえ半年かかった(すぐ怠ける)小屋もスーさんに言わせれば「まぁ1週間はいらんな」というのが数人いれば、すぐ建ちだす(雑誌なんかだと一日中だからね)。プレハブの仮設住宅よりずっといい。そこに避難してきた人達が住む。それは家ではない、「巣」だ。 ただ一つこうしたかった、というのは小屋に使う木材を貰ってこれなかったことだ。扉や窓は貰い物で、トタン屋根は今は矢澤くんも風合いを出しながら貯めているし、材木屋さんとも知り合えた。しょーらい大工もいる。次は本当にあるもので、作ってみたい。とにもかくにも、時間をかければ出来るのだ。「時は金なり」ってのは、だから「時は価値なり」ってことだ。しかも時というお金は使うほど自分の中に蓄えられていく(つまり、お金で買うってことは、その意味においては自分ではない誰かの価値が蓄えられていって、しかもそれは自分の手元には入らないってことなのか!)。 店をやりたいも思いついて、いきなり物件を探すために不動産屋へ行くことも、事業計画書の用紙を手に入れることなんかの既存のフォーマットを持ってきて、自分のやりたいことを当てはめるとき、そこには思考の欠如がある。既存のフォーマットを敷いた上での思考は、もう枠がでかあがってしまっているので自分の思考もその枠内におさまる。街の活性化や今の資本主義経済の変化をのぞんで、なにか新しいやり方を模索する動きが活発になっているなかで、行政からの補助金や融資を念頭においたやり方を僕がしたくないと思う(それが悪いなんて思わない。ただ、これらの小さな動きが大きな波になっても、恐らくそれは同じ構造を強化する方向に向かうのではないか?)のは、そういう理由がある。 かといって、最近はそこに反発することもしないようにしている。自分の中にもお金への欲望が巣食っているのもあるけど、それ以前にアンチでいることも結局は同じ権力構造のなかでのことだからだ。アンチではなく、オルタナティブであること。気にしないこと。 店をやりたいと思ったら、まず絵にかいてみる。文にしてみる。音にしてみる。人を思い描く。それが事業計画書になる。