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12月1日

晴れ。風は冷たいけど、陽射しは暖かい。風越山は馬ノ背あたりの木々は葉が落ちている。絨毯みたいだった山肌も徐々に毛が抜け落たいになって、だんだんと寒々しくなってくる。

喫茶日。前の公園の落葉樹もあらかた裸になってしまった。午後になると、サービスの人たちが落ち葉を拾いにくる。地面が固いのだからそのままにして、数年我慢すれば小さい子供が走ってもふかふかのクッションになるんじゃないかとも思うけど。怠けるのも大事。でも、ほんとのところよくわかってない。

お客さんが誕生日のお祝いの言葉をかけてくれて、なかにはプレゼントまで渡してくれる人も。ありがたい。お返ししなきゃという気持ちだけがどんどん積まれていく。ネギもらった。鈴木さんと本の話。翻訳の、訳者のバイアスは避けられないから原文が一番か、という話。それから一日考えている。僕は、実のところあまり原文が一番とは思っていない。読めないし。

単純に誤訳である可能性や、原文の単語が持つ意味と同等の単語が自国になかったりすること、語彙や慣用句の時代や地域のバイアスの問題もある、だからこそ原文が一番となるのだろうけれど、それは外国語で書かれたものに限ったことではなくて、いっちゃえば日本語で書かれたものだって、たとえば近代化以前と以後では相当に理解に幅があると僕は思う。もっといえば、個人個人の語彙ですら完璧に訳すことは不可能かもしれない。僕らの普段の会話ですら、いろんな「暗黙の了解」を基盤にしたものがたくさんあるだろう。それが本当に共有されてるかわからないまま(だから、話が噛み合わない話はおもしろい)。武道に関する本なんかを読むと特に難しさを覚えるのは、個人個人の身体がまるで違うからだ。「膝を抜く、足裏を抜く」とか「手は小指、足は親指」とか言われてもわからない人には全然わからないだろう。

小説を読むことが意味を読み取ることだという感覚でいると、原文が一番ということになるのかもしれない。でも、日本海の波と太平洋の波の違いはなにかいわれてわかるだろうか?ゆくかわのながれはたえずして、だ。

だから、訳であるか原文であるか、というのは必ずしも問題ではないように思う。多分、小説を書くときに必要とされる厳密さはそういう単語にたいする正確さとは、別種の厳密さじゃないかと思う。

プリンや自家製のガトーショコラ?なんかを頂戴する。吉村さんと空き家、古家の話。僕はお金が先立つやりかたではないやり方をせねばならぬ。街の再生、リニア問題、今日はいろんな話題がでたが、共通しているのは「お金がないと人は生きられない」という呪いのような盲信ではないか。街の活性化が、どうして経済と直結しているのかわからない。たとえば、完全に自給自足が成立して日々のやりとりが物々交換による集落があったとして、でもそこではお金はいっさい動かないのでGDP的にはなんの生産性もないことになる。しかし、もし人がその集落にきて「なんの生産もされていない!なんて貧しいんだ!」と言ったら、頭おかしいんじゃないの?と思わないのか。

だいたい、この土地はおれのもの!とはじめに言い出したのは一体どいつだ、と思ったりする。何年か前に月の土地が売買されてるなんて話を聞いた気がするんだけど、その話をして滑稽だとみんなで笑ったのだけど僕らがまさにそうなのだ。「誰の土地だと思ってんだ」って、あんたはずっと前からその土地に生えてる木に対してどう思ってんだ⁉と。

そんななかで大門にできる牛丼屋さんのオーナーが誰かをちらと耳にしてとてもがっかり。ほしほんとだとしたら、だが。

何かをやるために必要なのは何よりも知恵だ。生きるための技術である知恵だ。集めるのはお金よりも、人である。お金は人を集めるために使う。つまり、自分に使うんではなく人にお金を使うのだ。なるほど。そういうことだったのか。

事業としてはじめると利益をださなければ成功とはいえなくなってしまう。それでは結局元の木阿弥だ。個人個人の小さな動きであるからこそ、その軽さを活かした別の動きかたを探ること、そのことにこそまず頭を割きたいと思った。必要なのはお金ではなく、思想だ。誰かやらないかな。

最後に久保田さんが、みんなのいるまえで僕自身が忘れていた中学時代のことを話して思い出させてくれた。刑事事件になってたのか。僕の人格形成に少なからず影響があったのに、すっかり忘れていて驚いた。

家にかえったが、特になにもなかった。