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9月29日

火曜日。昼間は青空が見えていた気がするけれど、驚いたことに昨日の昼間は空をみていなかった?暑く、夜になると急に冷える。


火曜日。店の日、開店以来一番ひまな日。「開店以来一番ひまな日。」映画のタイトルのよう。岩本さんがCOEのコロンビア・ヴィジェ?マリア農園、をお土産に持ってきてくれて、早速それを淹れて飲みながら、焙煎の話をする。話しながらつらつらと冬にむけての焙煎に思っていることを形にしてみると、それはコーヒーの話に限らない。なんのことはない、僕自身の好みの方向性にのったものだった。

コーヒーに限らない話だと思うのだけど、春夏秋冬ぐるっと一年のあいだ、機械をつかってパソコンで制御もできる、もちろん細かいところに人の手が介入する、どんな味かを決めるのも人なわけだけれど、いま重要なポイントは再現性が求められている。ということだ。

これは、どんな時でも美味しい味はここ、と(誰にとっても、ではないということは言うだろうけど)ポイントを決めるとか当たりをつけるということで、そのポイントが各自の個性ということになる。そしてそこの誤差で揺れ動くわけだけれど、目指される味そのものは春夏秋冬に左右されていない。思うに、この考えの根本にあるのは「人の味覚(味覚にとどまらない感覚)は不変だ」という錯覚、でなければ理想だ。不変であるというか環境に影響されない、と思ってるんじゃないか。そういうとき、僕はいつも頭にダビデ像が浮かんでくる。

夏の暑い日に冷たい緑茶がおいしくて、冬の夕飯の後に焙じ茶がおいしいように、コーヒーも夏と冬で美味しいと思う味は変わるし、焙煎も夏と冬のそれでは季節にあう焙煎の違いがあるんじゃないか、と今考えているのだ。温度管理ができない小屋での焙煎となると、夏と冬とで火力などへの影響は如実にでる。そのとき、(なんにでもそうだろう)常に一定の環境にもっていくのか、煎り止めのポイントは同じでもそこまでの過程をその時季時季に委ねるかたちでやるのようにするか。この方法は必然的に出来上がりの味に違いがあらわれてくる。でも、どうせ委ねるのならそっちにしたほうがいいように思う(とはいえ、これだって「自然なものが一番うまい」という幻想に過ぎないのかもしれない。フランス、アメリカのフォアグラ論争のようだ)。

「俺にわかるように言え。」ということをいう人が僕は嫌いだが、環境を一定に保つことで同じ味をいつでも再現しようとする志向にもどうも同じものを感じてるのだ。この話になると、僕はとたんに嫌な奴になる気がするのだけど、絵画や小説や映画でもなんでも、「感性が大事なんだ」と安直に言われることー特にそれを「俺にわかるように言え」と言ってしまえる人から言われることーに、乱暴に言ってしまえば、頭にくる。

この人は、感性というものは、なんら外からの力の影響などなく、生まながらにずっとおんなじように持っているものだ、ということにカケラも疑ってない。そしていつも僕は「単純な計算しかまだ知らない奴が、オイラーの等式なんてわかんないじゃん。まして数学者がそれを美しいと感じるその感じ方なんて、そのまんまでわかるかよ!」と思うのだ。僕は、だからわからないやつは駄目だ、なんてことを言いたいんではない。わからないことをわかることができないことを、あたかも原因が対象にあるようや振舞うこと、そうすることで対象のもつ豊かさを自分のレベル(?)にまで引き下げてしまうこと、つまり自分は一歩も動くことなく世界のほうを自分のほうに動かそうとするその心根に苛立つのだ。

ずっとそのことに人生をかけてきた人がいう「結局は、感性だ。」というのとは全然違う。ある作品をみて、あるコーヒーを飲むのでも同じ、それについて語るとき「結局は感性。大事なのは気持ち。」といってしまえることの暴力性。

客は減るばかりだ…