6月27日、28日

曇り、雨は降らず。

翌日28日は、パーっと夏のような青空。


雨のあとは、右手が木曽山脈なら左手は赤石山脈に挟まれた谷を車で走るとき、いりくんだ段丘や田切で複雑な起伏に富んだ山あいの木々の緑は(つまりは見渡す限りどこもかしこも)ぐぅっと奥行きを増して立ち上がってみえて、思い出すのは「わけいってもわけいっても青い山」。青は、この深緑のことに違いないと思われた。


森のバロックのなか、南方マンダラの、物と心のあいだに事が生じてその痕跡が名という抽象的な構造となって、名の具体的な象徴として印が生まれる。読みながら、偶然に最近、生まれつき耳が聞こえない人の話を聞いて自分の拙い想像をこえた驚きの話をきいた。

それは、その人は言葉を読めない、ということ。「おと」という言葉に音がないので、その人には「おと」は「€%」と同じように、いつまでも記号でしかなく、そこから想起される具体的なイメージ(南方マンダラでいえば、印?)が生まれるためには音を経由しない別の回路が必要になる、それは視覚の記憶かな。「おと」という記号を見たときの記憶の集積が「おと」の意味を、つまり名を作り出していく。言葉のぜんぶがこの調子でその人のなかに構築されていくので、普段耳が聞こえることが前提で成される会話なんかでは、あいまいな「ニュアンス」を拾うことがとても困難なんではないかと想像する。実際、その人と会話をするとき(その人は読唇術を習うことがあったらしく、そして昔は耳が聞こえない場合の伝達の手段はけっこうそうだったらしい)「~なので」「~、ていうか」というような接続詞は理解できない。また、言葉の構造が違うということはその表し方が違うことになり、その人の感情の機微を汲み取るのが難しいそうだ。でも、このことはその人の感情が薄いことを意味しないだろう。感情であっても、心にフィードバックしていかなければ精度は上がらないから細かい感情は大まかなものに見做されてしまうかもしれないが…、と言葉にしてみたらそれは全然そんなことないじゃないかと思った。感情を言葉という形で印にすれば確かにそうなるかもしれないが、なにも印が言葉であるとは限らない。むしろ、身体に現れる変化に著しいほうが自然だ。不安時に舌の味蕾がふくらむように。

ここで先日の農家の木村さんの話を思い出すのは、キュウリの蔓が差し出した指に絡む人を選ぶ話だ。猫や犬を飼ってる人はもっとわかりやすい。サボテンや他の植物の花の咲かせ方でもいい。中川のハチ博士は、蜂の羽音を聞けば機嫌がわかると言ってた。つまり、感情を持っているのは人間だけではなく、動物や虫だけでもなくって植物も感情を持っているけど、ただその表現を僕らが拾えていないだけなんじゃないか、ということに結びいて僕は夜中、一人で興奮を抑えられない。山は、海は、感情を持ってるだろうか。持っている。

そう考えられることが、なんてこんなに嬉しいのこ自分でもよくわかんないけど。


夕方、といっても日が長くなって夜の7時前なのにまるで明るい空を見上げると、山脈に平行に南北に、まるで巨大な波のようなまっすぐな雲が延々と伸びていた。