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5月4日

まえの日曜日は畑を兼ねた庭の、奥側の畑を物干し竿で隔てた家側、軒先に沿ってむかし義祖父が一段土を盛って草木を植えたそうだその脇にステップを持って朝の日光浴をして、ボケーっとしてみる。午前10時。

段上の大半を占める、なから鬱蒼と生えているユキヤナギとツツジはちらちらと白と紫の花をつけていて、陽に照らされている。ツツジに囲われるかたちで家側のあまり日が当たらないところに竜舌蘭が大きくて先の尖った葉っぱをほうぼうに伸ばしている。それらの足元の湿った日陰にはユキノシタやらリュウノヒゲやらニラやら他にも、名前の知らない草がわさっと植わっている。敷地の端まで盛られた段の脇に月桂樹が一本、家に半分隠れるかたちで濃い緑の硬い葉っぱが見えている。反対に一番手前、僕が座っている目の前には背の低い老梅が全身陽に当たっていて、もう年老いてボロボロになった木肌に蔓が巻きついていて、その蔓もずいぶん古いらしく、幹の下のほうの蔓は短い気根?(あとで調べると付着根、とかキヅタと呼ばれるようだ)がびっしりと生え、その根がみんな乾いて梅の幹と同化している。そのすぐ上から赤が混じった緑の葉っぱを広げている。年老いた梅のそれでも咲いた花はもう散っているけれど、枯れた枝からはたっぷり水気を含んだ若葉が、生命力そのものが梅の中にとどめきれずに溢れてきたみたいに裂け出ている。

ボーッとしている目の前、ツツジの葉っぱの裏っかわに蠅がじっととまっていた。時折、くるっと向きを変えては身体を擦る。前脚で顔全体をわしわしと擦る。そのまま見ていると中脚をくるっとやって、おじさんが頭を撫でつけるようにして羽根を背中から先っぽまで器用に撫でる。後脚を合わせて擦る、揉み手をしているようにしかみえない。それからまた中脚で羽根を擦る。葉っぱにとまっているときは脚は脚でしかないのに、擦ったり撫でたりする瞬間、蠅の脚はまるっきり手のように動く、というか手が動いてるとしか思えないそれが面白い。あとはずっとじっとしている。あんまりじっとしているので、虫の時間の進み方はどんななんだ、と対抗したくなってこっちもじっとしてみるけれど、蝿には勝てない。でも蠅は眠ることを思い出して、多分いまこの蝿はウトウトしていることがわかって悔しくなくなった。

ふと目をやれば、蠅だけじゃなくところどころに蜘蛛が、張った巣の上にとまっめいる。ツマグロオオヨコバイや小さい羽虫が数匹、虫の小ささからすれば森みたいな草叢の中を縦横に飛び回る。草叢の少し上で斥候のクマンバチがブゥゥーンと音を立てて空中にとどまったまま向きを変えた。畑の菜の花をふらふら舞っているモンシロチョウの羽の動きはぼくにも見えるくらい、クマンバチに比べればゆらゆらとゆっくりだ。

ぴゅっと横切った翅がキラッと光った瞬間、ただの草叢だった目の前の空間が突然、光と影が折り重なって高さと奥行きを持った特別な空間として立ち上がった。山に登っていて突然開かれた視界に広がる光景に目を奪われる、同じ強度で草叢が開けたように見えた。

虫たちにとって、世界はこの庭のこの草叢に限られているかもしれないけれど、その世界はとても高くて、枝葉がつくるたくさんの層が複雑に重なりあった、なんて厚みのある世界で、それが一挙に僕の前に現れたのだ。ファーブルや守一は常にこんな風に世界を眺めていたのかもしれない。


ほんのいっときのことで、言葉にするとなんと仰々しいものになってしまったけれど、さらっと書いて、それで視界の焦点がぎゅーっと絞られて目の前の空間がブワーっと広がる感じを出せたらいいなぁ、と思い、ひとまずあのときの感覚を思い出すために紐として括り付けて、この端っこを引っ張ることで感覚を開く仕掛けにする。

(やっぱり、人は自分の持っている感覚を読み込んでいるのだろうか。たとえば本を読んで、はじめてのように感じるあの感覚も、もともと僕のうちにあったものが開かれるのか、もしくはそれが変形して現れるだけなのか。全く新しいものが生まれているわけじゃないのだろうか)


平安堂の古書コーナーで『世界短編名作選 ラテンアメリカ編』を買う。

リョサカルペンティエールマルケスコルタサルがはいっている!

と読みはじめたら、ギマランエス=ローザというブラジルの作家の「おこり」という話が、なんか面白い!