12/15

朝、夜中に何度か起こされたりしてウトウトしているうちに家から人がいなくなり、なのに寝室の障子を音もなく開けて布団の脇を通る者がいる。目を開けたら、誰もいなかった。そんな夢だかなんだかわからないものから、僕しか生きていないことを知らない女の子といたり、怖い夢ばかりどんどん見た。

焙煎。長時間焙煎でブラジル。モンテアレグレが、ほんとにミルクチョコの匂いがして驚いたので試し中。赤石商店さんとリッピングストアさんのコーヒーに合わせて完成させたい。明日、試飲して決めることに。

フェイスブックで出店(この言葉、使いたくない。が、他にまだ思い至らず。)の告知をしようとして、「神藤啓介」と「啓榕社」、2つあるのがややこしい。何をどっちで書いたらいいかわからないのだ。みんな、店の名前と自分と違くて戸惑うことはないのか?それはすごいことだ。とぼんやり考えていたら、いま僕が啓榕社でやってることは、プライベートでやってることをただ社会にあわせた形にしているだけなので実際には僕と啓榕社は一つなので、それも当然のことなのだった。

啓榕社は、いろいろやりたいことをできるように、コーヒー屋っぽくもあるし出版社ぽくもあるし、結社の響きもあるし、名前が中身を縛ることをきらってつけた狙いもあったから、啓榕社がやることはまんま神藤啓介というひとりの人間がやること全部入っちゃうように、最初からなってるのだった。とりあえず、フェイスブックをどっちか一つにまとめることにする。で、迷っている。

25、6年ぶりにミヒャエル・エンデ『モモ』を読み返しているが、とんでもなくいい。僕が思うことなんて殆どここに書いてあった。

想像の冒険に熱中するあまり、本当の雷を怖がるのを忘れてたり、現実を物語として捉えることで見えなくなるものがある。これからしばらくはみんなに、「モモを思い出せ!」と叫ぶことになろう。


10/5

晴れのち曇り、夜になると同時に大雨。台風がどこかにいるらしい。


台風が寒気に?ぶつかると温帯低気圧に変わるんだって、ということを初めて知った。ふぅん。台風は目で見ることができるが、寒気を人はどのように見ているのだろうか。きっと、肌なりなんなりで感じてるとは思うのだけど。


10月からカフェの営業日が火・水の週2日になりました。松浦君だったと思うのだけど、先週蟻の話を聞かせてくれた。働きアリには必ず怠けてるやつがいる、という有名な話の原因は、アリには卵か女王を24時間世話しっぱなしの役割のアリがいて、相当な重労働なわけだから死んでしまう。すると、今まで怠けてたアリが替わりにそこに入るのだと。君は、その怠けアリなんじゃない?

と言われてなるほどなぁー、と感心して、やっぱりこういう僕みたいな人間は今こそ動かなければ、その存在価値がない!というわけだけど、同時に自分としてももうちょっと店を開けたいなぁ同時に思っていたので願ったり叶ったりなのだった。


綾子ちゃんからコーヒー豆の差し入れを頂いて、みんなで試飲してみる。

美味しいコーヒーは世の中に沢山あって、ことにサードウェーブの流れで自家焙煎の上質なコーヒーがあちこちで飲める。コンビニコーヒーは論外として、そんなコーヒー屋さんのコーヒーを飲んで最近は「美味しい。美味しい、が退屈な味だなぁ」と思うことが増えた。

そして昨日もらった焙煎機で上手に焙煎された(味からして、おそらく直火焙煎だった)コーヒーは雑味のないクリアな味のコーヒーで、美味しい。美味しいのだけど、……。

この、「……」は何なんだろう。


家に帰って、風呂に浸かりながらばんやり考えていたとき、いつもの「コーヒーに限らないが、いまのコーヒーの流れに抵抗しようとする違和感は、どこからくるのか?」これを考えると、毎度毎度の生活と労働の違いや生きる価値といった考えに繋がっていくのだけど、そんなのがぐるぐる発火しては消え、膨らんでは萎んでいく。そんなのが続いている中で、「流行と文化の違い」なんじゃないかと閃いた。

流行か、文化か。とはいっても社会の流れとかではなくて、一人の人が向かう姿勢の問題である。


6/26

夏の雲、曇り。夜から雨。


夕方過ぎから鼻の奥が乾いて炎症っぽい。夜、松浦くんや綾子ちゃんと会うつもりだったが、断念。ヨーコたゃんがヨーレン菌にかかっていたし、様子見る。


水木しげるの昭和史第1巻を読み直している。

「田中内閣は“積極的な”政治」を打ち出していた。大正14年に普通選挙法と治安維持法が成立。このあたりから「終戦までの言論弾圧の布石は完了した」といえるとねずみ男は語る。

中国・南京政府の北伐から日本人居留民を守る名目で3度、出兵。「こういう“積極的な”外交政策は、内政における景気刺激策としての軍事費の増大とも連動している」、「とにかく日本は軍事的にも経済的にもアジアに進出して、権益を拡大しようということじゃよ」。

今の状況とだいぶ似ているようにみえるのは僕だけか。積極的、という言葉。こんなに言葉を空虚に扱うことができるのか、という驚き。

違いがあるとするなら今の政府が目指すのは、新しく権益を獲得するのではなく、かつて日本が持っていた権益(事実持っていたかどうか、他国がどう捉えているかは関係ない。それがお花畑であるにせよ)を取り戻したい、ということのようにみえる。軍事的にも、というところはいささか当時のことはわからないけれど、いまこそ政治も軍事も直接、経済と連動していて、日本が軍需産業に手を広げているのは戦争うんぬんよりもお金を見ているんではないか。

そののち満州某重大事件がおこって、陸軍は力を拡大していく。歴史は模倣するのだろうか?


バーテンダー時代に耳にした、僕が腹立たしくて仕方がなかった、忘れられない話のひとつは、ある客が「どっかの国が戦争を起こしてくれれば、日本も潤うんだけどねー」と言った一言だ。

(でも、普通にこんな田舎で生活していてそんな感覚を持つことがあるだろうか。この人は、ただどこかの雑誌を読んだか、訳知り顔のコメンテーターの話なんかを右から左に受け流しているだけだったのだろうと思う)

参院選を控えて、政治参加を呼びかける人たちも増えてきた。選挙に行こう、と。

選挙は、僕らができる政治活動のなかでもほとんど重要なことじゃないと思っている。なぜなら、あれは組織であり、役職であって、匿名なのだから。

僕がやっている活動は、ある意味すべて政治活動だ。なぜなら、僕ら民にとって、生活の在り方を考えて行動することが直接政治に関わることだ、と僕は思っているからだ。というか、それこそが政治を動かす一番手っ取り早く確実な方法だとさえ思っている。誰か一人の英雄を望むより、組織を支えている僕ら一人一人の意識を変えること。

僕は選挙で政治が(自分たちが望むように)かわると、全然思ってないのだ。僕ら自身が変わることが、政治を変えることだと僕は思っているらしい。

選挙があるたびに、あなたの一票が社会を変えるという。でもその社会を変える人間があなたではない限り、あなたが望むようには社会は変わらないだろう。選挙に行こうと叫ぶ、投票に行く。そして、それからあなたは何をした?本当に恐れられてるのは、僕ら一人一人が考えることだ。投票なんて恐れてはいないだろう。なぜなら、最終的にはその仕組みを変えることができる権力を彼らは持ってる。どうしていま、18歳まで選挙権が拡大されたか、考えてみること。

冷房の効いた部屋で馬鹿でかいTVから流れてくるワイドショーをみて、温暖化ヤバいよ!何とかしないと。政府は、何をやってるんだ?

あ、でもこの候補者、温暖化をストップさせるって公約してる。で、投票。開票、当選をTVで見て、その後の動向はTVに出たとき知るくらい。今日も冷房を効かしてる。のほうがヤバいよね。


6/24

曇り、のち午後から雨。


夜寝る前に、ふと思いついた時に独学の活元運動をやってみる。かれこれ一年になる、でも身体が気ままに激しく動くまでいったことがなかった。それが「あなたの管」でふと目に入った活元の動画を見てから誘導運動をそのようにしてみた。

今までも、背中というか背骨がわずかに動きたがっているのはわかったのだけど、あまりに細か管か弱い揺れで、その動きを意識しようとして掴み損ねてきた。それがこないだ、はじめて身体が意思から離れて動いて、それを観ている自分がうまれた。

昨夜は、昨夜もはじめはわずかな揺れで、それを僕の意思が握って止めてしまわないようにそっと、でも取り逃がさないように観察するうちに動きは段々大きく、またいろんな形に変化して、最後は今までなかった縦の波打ちがきて、落ち着いた。

そのまま寝ようと目を瞑っていると、背中は勝手にビクビク痙攣したりうぞうぞ蠢いていた。今までもなかったわけではないけど、これだけ自由に身体が動いたのは初めてだった。

朝起きるといつも古傷の腰痛があって腰が反れなくて背中が硬くなっていた。それが、起きてみて「あれ?」と驚くほど、柔らかくなって腰も痛くなかった。

昼間、動いてるうちにまて少し元に戻った。

6/18〜22

18日から結婚式で東京へ。泊まりが新大久保で、みんなで韓国家庭料理屋へ行く。マッコリがうまい!肉もうまい!夜10時を過ぎて道を歩くと、画面の向こうで見たような多国籍でここはどこだ⁉︎という雰囲気が、ちょっとびびるとともに頭のどこかが興奮してくる。もっと色んな店に入りたかったけれど、疲れと満腹で帰宅。


7時にはみな起きて、もうお別れ。途中まで一緒にいき、友人らは朝からラーメンを3杯食うのだ!とゴールデン街へと消えていった。映画に行こうと思い調べると、9時から『帰ってきたヒトラー』がやっているので行ってみると満席だった。

渋谷まで出て、ポールバセットでエスプレッソを飲んでみる。すっぱいー!これも飲みつけるうちに慣れるだろうか、アイラモルトアブサンみたいに。臭いのって、ちょっとでもそういうのとは違う気がするしな。酸っぱさの後から色んな甘さや別の酸味も感じられるが、ちょいこの浅さは僕にはきつい。いつかリベンジじゃ。

ユーロスペースで、「FAKE」と悩んだ末、時間の都合でペドロ・コスタ『ホース・マネー』を観る。

……とんでもなかった!この映画が観れてよかった。映画のリテラシーがなさ過ぎる自分が残念でならない。

リテラシースノッブで偏狭な視野しかもたらさないのなら、そんなの鼻かんでゴミ箱にポイすればいい。でも、間違いなく素晴らしいのはわかるのにそれを拾えていない実感を持ったことがあるなら、この感覚はわかるだろう。つまり、リテラシーとはただの歴史や知識ではないのだ。対象への能動性とでもいったもの。ただただ足りない自分は、とにかく身を乗り出して(実際には椅子に深く沈んで)少しでも見落とすまいと観るしかない。

影のなかに刺す光の方向と数。画面両端の暗闇。そのなかで背高く聳え立ち、足を屈めて小さく横になるヴェントゥーラ。彼の震える掌がペチペチと当たる音、息遣い。詩を詠むように語られる言葉。白髪の、くるくると丸まった髭。いまはいない男。つじつまは、わからない。こんがらがった時間、そこを彷徨う人たち。暗い森。配置される人たちの、その配置。歌。アピチャッポンもそうだった、なんでこの人たちはこんな音楽を見つけてくるのだろう。歪んだ身体。赤いパンツ、それを囲む兵と戦車。廃墟。暗い建物、明るく硬質なエレベーター。動かない兵隊。尻をかく。エンディングの音楽。

ああいう映画のあと、普段どれだけ自分が受動的に映画に寄りかかっているのかわかる。集中とは、圧倒的に能動的な受動性だ。


火曜の喫茶、高橋さんと神田さんが来店。結局、また僕ばかり話してしまった。神田さんは野口整体合気道もやっている、僕がやりたいことをみんなやっている!「身体に戻らなければ」と同じことを言っていた。そして、神田さんはそれを実践している。背骨の話をする。

野口晴哉は、神は背骨だと(これは僕の記憶違いかもしれない)、神によって僕らは動いてるけれど、ほらそれを見ることはできない。(と言って、肩越しに後ろを見ようと上体を捻った)神はいつもどこか、後ろから見てるっていうのは、背骨だってことだ」

その話を聞いて、前の月曜日、いまiPhoneのメモで書いている小説?のなかでちょうど背骨の話をしていた。そこでは足の先の骨の数は多いから緻密で柔軟な動きができる、というかしたほうがいい。それは人の背骨に比べて、猫の背骨の数が多いことであのしなやかさと滑らかさを持った動きが生まれるように、というその譬え話をしていたばかりだった!

というのも、熊楠といえば猫楠だ。「だから熊楠も、猫だったんですよ」と思ったけど、言うのを忘れた。背骨の話、もっと聞きたい。


朝方、夜寝る前に食べたせいで目がさめる。布団を剥いだら腹のあたりがすわり、と冷えて「あ、これはくるかな」と思う。また寝て夢を見て目がさめると、すこし鼻が詰まっている。やっぱり、きた。しばらくして、消えた。

6/9

曇り、のような晴れ。雲がどんどん厚く大きくなって、わくわくする。日中はじめっとした日が多くなってきた。


火曜の営業日に取材を受ける。どうしてコーヒーを始めたのか、という質問。

1. コーヒーを焼くことが楽しくてしょうがない。上手くできると忘れないうちに焼きたくなるし、失敗するともう一回焼きたくなる。

2. 自分のなかですぐお金にできるものだったこら。

3. みんなコーヒーをもっと飲まなくなればいい、と思ったこと。

3.はいつも誤解される。言ってることとやってることが逆を向いているように聞こえるからだ。そして、僕はコンビニコーヒーのことを引き合いに出した。1年も経たず1億杯を突破したと幟にでたとき、「その分の豆はどこからやってきたんだ?」

別の豊かさを選ぶ、その選択の場をその人のなかに増やしたい。変えるべきは生産者や提供者ではなく、消費の概念なのだ。で、いつのまにか取材の話がお悩み相談室のようになって、僕は楽しかったけどどうだったのだろう。


という話の後で、次の夜話をしているとコーヒー好きのお客さんが

「コンビニのコーヒーって殆ど利益ないんですって。100円で、利益なんて10円とか。」つまりは客寄せなのだと。「すごいねぇー」と言うと、「でも10円でも100億杯売れたら、1000億ですよ。凄くないすか?」すごい。昨日の話はできないなぁと思って黙っていた。


僕はやはり概念を変えたい。「君の言ってることは全うだ。でも、それを言ったら社会は回らない」何度も言われる。

でも、それなら回らない社会のほうを変えるべきで、全うな方を排除するのはおかしいんじゃないの?となるのだ。

スピリチュアルと想像力の話をする。

スピリチュアルと名指されるものは、なぜか精神的、神秘的なものに依ってしまうが、いま神秘的ってのは殆ど論理的に説明できない、くらいの意味でしかない。そして、論理的に説明できないような物事が世界には溢れている。世界(= 真理=自然、というのが僕のいまの感覚だけど)をどこの側面で切り取ってみるかが、論理や数学や芸術で、自分の世界との接触点を揺るがしてくれる人は、僕にとってはアーティストなんである。

精神的、というのは身体と切り離してしまったからなんかよくわからない。しかしいまの僕のなかでは想像力、スピリチュアルな心性を、もっと動物的な、即物的なものに近づいている。インプットとアウトプットの話だ。同じ入り口で、どこの出口を通るかのちがい。


帰って寝る前にiPhoneを開き、メッセージの返信を打っているとき(送るのは起きてから)、Facebookのタイムラインを眺めていて、無性に虚しくなって、思わず涙がこみあげてしまった。




評価の基準をこの社会の枠組のなかで設定すると零れてしまうような素晴らしいことをしている人たちが、沢山いる。

6/6

晴れ。大きな雲。午後から少し曇る。


シャンプーしなくなって4日。身体はもう何年も石鹸を使ってない。整髪料使ったらシャンプーしようと思っている。不規則な食事を、時間を見て規則的に食べることは身体にとっては別に規則的でもあるまい、と思って空腹を基準にすると、2〜3日もすればほっぺたがすべすべになった。お肌にいいの、おすすめ。


焙煎をしていると、原さんこら電話。お昼を一緒に食べる。そのときの会話のメモ。


記憶の話

臓器移植で記憶も移植される

臓器が記憶を保持するのではなく、記憶とつながるデバイスと考える、らしい


僕は記憶自体が今の記憶の概念は狭いと思っている。記憶はあらゆるところに、ある。


インプットとアウトプットの話

幽体離脱の構造への私見(アウトプットの齟齬)

整体とお祓い(右肩の黒いもや。二人は同じものを観ていた。それを表現するものが幽霊か整体か、要するにアウトプットの選択の差。数学と絵画、武道と文学、どれも同じ世界の別の側面を切り取る。しかできないとも言える)

催眠術の実験(インプットにアウトプットを限りなく近づける)

原さんのお母さんの虫の知らせ

予知夢で行動を変化しても運命は変えられない→ 1+1=1が最も美しい数式だって数学者には見えるから真理に違いない、と証明にいどんでいる、らしい。→「全てが決まっていて それゆえに完全に自由」だったか沢庵

予知夢。

Sさんのパンの神様からのバッグクロージャーという言葉

三脈をとること



人間の想像力は、動物が個が薄くゆるく繋がっているのに対して個が確立されて集団的には切断されている、繋がりを補填するために発達した力。山極総長によれば、ゴリラは集団から一旦離れると(不在)、2度と群れには戻れない。人間はいまここに不在ながら、存在を知っている(想像している)。

大海原で迷った時に想像された島を拠点にして方角を定める方法の話。この島は、限りなく実在に近く想像される(移動してしまったら意味がない)。動物の想像力に近い。つまり、人間の想像力に比べて、より身体的だ。


小説の話に摺り寄せるなら、今の社会で起きていそうなことを書くことは、この想像力を働かせることとは違ってくる。もっと身体的な、即物的な方向に想像力の重点を移動して、より自然で使われているものになるなら、社会の外に向かう。(探偵ナイトスクープで1番好きなのは四つ葉のクローバーの声が聞こえる女の子のはなし。あの声が聞こえなくなった人間は、想像力のバランスを今使われる方に重点を置いた。)


記憶、時間は直線に進むわけではないこと、横だけでない縦の広がり、捻じれ。

空間も同じ

11次元の理論が引き合いに。

お昼を食べながら、久しぶりにそんな話。2時間ばかり。

僕の焙煎へよ心算のはなしも。


テーブルにいたお客さんが怪しい顔して、あいつらなんの話してるんだ」と訝っていた。


なんでも、自分が既に知っていることで物事を判断して得るものはあんまないとおもう。物事をみるとき、判断され変化されるべきは、物事の方ではなく自分のほうだ。物事をみる、てのほそういうことかも。いま、眠い頭で考えている出まかせだけど。まず、「自分でも意識していなかったような」常識を疑うこと。

はっきりいって、みんなありとあらゆる常識に縛られている。それは自分一人で自覚することがあまりに難しいくらいの常識だ。そのことを、ひしひしと見せつけられることがままある。本当にそんなことまで、というところまで気づくことが始めにもなるのだけどな。