6/18〜22

18日から結婚式で東京へ。泊まりが新大久保で、みんなで韓国家庭料理屋へ行く。マッコリがうまい!肉もうまい!夜10時を過ぎて道を歩くと、画面の向こうで見たような多国籍でここはどこだ⁉︎という雰囲気が、ちょっとびびるとともに頭のどこかが興奮してくる。もっと色んな店に入りたかったけれど、疲れと満腹で帰宅。


7時にはみな起きて、もうお別れ。途中まで一緒にいき、友人らは朝からラーメンを3杯食うのだ!とゴールデン街へと消えていった。映画に行こうと思い調べると、9時から『帰ってきたヒトラー』がやっているので行ってみると満席だった。

渋谷まで出て、ポールバセットでエスプレッソを飲んでみる。すっぱいー!これも飲みつけるうちに慣れるだろうか、アイラモルトアブサンみたいに。臭いのって、ちょっとでもそういうのとは違う気がするしな。酸っぱさの後から色んな甘さや別の酸味も感じられるが、ちょいこの浅さは僕にはきつい。いつかリベンジじゃ。

ユーロスペースで、「FAKE」と悩んだ末、時間の都合でペドロ・コスタ『ホース・マネー』を観る。

……とんでもなかった!この映画が観れてよかった。映画のリテラシーがなさ過ぎる自分が残念でならない。

リテラシースノッブで偏狭な視野しかもたらさないのなら、そんなの鼻かんでゴミ箱にポイすればいい。でも、間違いなく素晴らしいのはわかるのにそれを拾えていない実感を持ったことがあるなら、この感覚はわかるだろう。つまり、リテラシーとはただの歴史や知識ではないのだ。対象への能動性とでもいったもの。ただただ足りない自分は、とにかく身を乗り出して(実際には椅子に深く沈んで)少しでも見落とすまいと観るしかない。

影のなかに刺す光の方向と数。画面両端の暗闇。そのなかで背高く聳え立ち、足を屈めて小さく横になるヴェントゥーラ。彼の震える掌がペチペチと当たる音、息遣い。詩を詠むように語られる言葉。白髪の、くるくると丸まった髭。いまはいない男。つじつまは、わからない。こんがらがった時間、そこを彷徨う人たち。暗い森。配置される人たちの、その配置。歌。アピチャッポンもそうだった、なんでこの人たちはこんな音楽を見つけてくるのだろう。歪んだ身体。赤いパンツ、それを囲む兵と戦車。廃墟。暗い建物、明るく硬質なエレベーター。動かない兵隊。尻をかく。エンディングの音楽。

ああいう映画のあと、普段どれだけ自分が受動的に映画に寄りかかっているのかわかる。集中とは、圧倒的に能動的な受動性だ。


火曜の喫茶、高橋さんと神田さんが来店。結局、また僕ばかり話してしまった。神田さんは野口整体合気道もやっている、僕がやりたいことをみんなやっている!「身体に戻らなければ」と同じことを言っていた。そして、神田さんはそれを実践している。背骨の話をする。

野口晴哉は、神は背骨だと(これは僕の記憶違いかもしれない)、神によって僕らは動いてるけれど、ほらそれを見ることはできない。(と言って、肩越しに後ろを見ようと上体を捻った)神はいつもどこか、後ろから見てるっていうのは、背骨だってことだ」

その話を聞いて、前の月曜日、いまiPhoneのメモで書いている小説?のなかでちょうど背骨の話をしていた。そこでは足の先の骨の数は多いから緻密で柔軟な動きができる、というかしたほうがいい。それは人の背骨に比べて、猫の背骨の数が多いことであのしなやかさと滑らかさを持った動きが生まれるように、というその譬え話をしていたばかりだった!

というのも、熊楠といえば猫楠だ。「だから熊楠も、猫だったんですよ」と思ったけど、言うのを忘れた。背骨の話、もっと聞きたい。


朝方、夜寝る前に食べたせいで目がさめる。布団を剥いだら腹のあたりがすわり、と冷えて「あ、これはくるかな」と思う。また寝て夢を見て目がさめると、すこし鼻が詰まっている。やっぱり、きた。しばらくして、消えた。