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曇り、のような晴れ。雲がどんどん厚く大きくなって、わくわくする。日中はじめっとした日が多くなってきた。


火曜の営業日に取材を受ける。どうしてコーヒーを始めたのか、という質問。

1. コーヒーを焼くことが楽しくてしょうがない。上手くできると忘れないうちに焼きたくなるし、失敗するともう一回焼きたくなる。

2. 自分のなかですぐお金にできるものだったこら。

3. みんなコーヒーをもっと飲まなくなればいい、と思ったこと。

3.はいつも誤解される。言ってることとやってることが逆を向いているように聞こえるからだ。そして、僕はコンビニコーヒーのことを引き合いに出した。1年も経たず1億杯を突破したと幟にでたとき、「その分の豆はどこからやってきたんだ?」

別の豊かさを選ぶ、その選択の場をその人のなかに増やしたい。変えるべきは生産者や提供者ではなく、消費の概念なのだ。で、いつのまにか取材の話がお悩み相談室のようになって、僕は楽しかったけどどうだったのだろう。


という話の後で、次の夜話をしているとコーヒー好きのお客さんが

「コンビニのコーヒーって殆ど利益ないんですって。100円で、利益なんて10円とか。」つまりは客寄せなのだと。「すごいねぇー」と言うと、「でも10円でも100億杯売れたら、1000億ですよ。凄くないすか?」すごい。昨日の話はできないなぁと思って黙っていた。


僕はやはり概念を変えたい。「君の言ってることは全うだ。でも、それを言ったら社会は回らない」何度も言われる。

でも、それなら回らない社会のほうを変えるべきで、全うな方を排除するのはおかしいんじゃないの?となるのだ。

スピリチュアルと想像力の話をする。

スピリチュアルと名指されるものは、なぜか精神的、神秘的なものに依ってしまうが、いま神秘的ってのは殆ど論理的に説明できない、くらいの意味でしかない。そして、論理的に説明できないような物事が世界には溢れている。世界(= 真理=自然、というのが僕のいまの感覚だけど)をどこの側面で切り取ってみるかが、論理や数学や芸術で、自分の世界との接触点を揺るがしてくれる人は、僕にとってはアーティストなんである。

精神的、というのは身体と切り離してしまったからなんかよくわからない。しかしいまの僕のなかでは想像力、スピリチュアルな心性を、もっと動物的な、即物的なものに近づいている。インプットとアウトプットの話だ。同じ入り口で、どこの出口を通るかのちがい。


帰って寝る前にiPhoneを開き、メッセージの返信を打っているとき(送るのは起きてから)、Facebookのタイムラインを眺めていて、無性に虚しくなって、思わず涙がこみあげてしまった。




評価の基準をこの社会の枠組のなかで設定すると零れてしまうような素晴らしいことをしている人たちが、沢山いる。