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快晴。


ケンジさんと久保田さんともに勧めてくれた『父、帰る』を観た。映画は小説とは違うやり方で見せる、見せ方を知ってる脚本だ。井上さんは昔、「小説は全部文字で想像させなきゃいかん。でも映画なら、言葉以上に、表情で一発だ。だから映画のほうが小説より優れている。」と言って憚らない。僕は勿論、その意見には賛成できないどころか、井上さん自身おなじ口で「映画は、脚本が全てだ(この脚本は、演出から照明から音楽から、全部ひっくるめてしまっていたのだから、結局全部が全てだ、て言ってるようなもんだ。ただ、映像が抜けてるという一点で間違ってる)」と言うのだから反論するのも脱力ものだったが、それは一面では的を得ているのだろう。明日、ツタヤに返さずにまだ繰り返し観たいその『父、帰る』のなかで映る美しい晴れた空の青の青さは、なかなか、ない。日本の空は高すぎるのか、白さが勝っている。


焙煎をして、コーヒーラボのフライヤーを描いて、ベラの原稿、もいっこの原稿、ツツイさんのHPの下書きもする。図書館に行って肉の話を描いてるなかで飯田のおたぐりの事を少し触れると、なんで馬肉が飯田に根付いたのか気になってきたところで、新刊の棚で「日本人と馬の文化史』なる本を見つけてしまった。

肉のことはほとんど触れられてないが、それを読むうち、やはり馬は東北、それに西日本以南で盛んだったようだ。徳川家康が秀吉の政策を踏襲して年貢として米を納めさせたことと用水の技術の進歩によって、内陸部の扇状地や台地に耕田が広がったらしい。ということは、日本は稲作文化というけれど、山間部ではむしろ、稲作は江戸以降に主な耕作となったということだろうか。「飢饉のとき、上流の者ほど飢えなかったんだって」とたろう屋さんが先週言ってたことともつながる。龍山堂主人というひとの話が、また面白い。江戸に入り武士は兵農分離のせいで馬を飼う余裕がなくなってしまい、馬術の腕は衰えるし、飼うためには都市部から離れなければ餌も寝所も人夫も賄う銭は作れないし、というまるで今みたいな話のなか、龍山堂主人は小屋もなにも皆、自分でDIYして、馬が草を喰める土地に移り、馬糞を農民に売り、と常識といわれるものを換骨奪胎して、自身の生活を作り替えていったのだった。いつの時代にも同じようなことを考えて実行している人はいたのだ。それを知って、僕はやっぱり間違ってない、と思えた。龍山堂主人の『厩馬新考』、調べてみよう。

とかく、弥生から稲作が始まったといって、一斉に皆が右ならえしたわけではないのだ。なんというか、本当に人間は、自分が思い込んでいることは、自分が思っている以上に多い。そのことは、思い込んでしまっているうちはわからない。だから、つねに「これはおれがただ思い込んでるだけじゃないのか」と立ち止まる必要がある。常識なんて、つい最近の、しかも狭い範囲のものでしかないのだ。「自分はそうじゃない」と思っていても、全然、自由になれてないぞ。


『アベンジャーズ』『父、帰る』『ホドロフスキーのDUNE』を観る。

ムーミン谷の彗星』『脱獄計画』『伯爵夫人』読み終える。


あー、才能が欲しい。なにか、身体の裡で渦巻いているものがあるのに、それに形を与えることができないもどかしさが、ずっとある。でも、そのためにはとにかく続けることでブレイクスルーがある、という直感はあるので、そのための体力を養う。で、再び走り始めた。甘いものを抑えると疲れにくくなる、というので試してみよう。明日から(笑