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2/23 覚書の走り書き

二元論的思考には、常に警戒心を持っている。

再開発、新しい集落の/仕事のあり方、革命。たとえどんなお題目が唱えられようとも、そこに必ずつきまとう「食べれなければ、しかたがない」。どれほど、その変革が素晴らしく見えようとも、それで生活ができなければ早晩、僕らは再び、いまの社会構造の一つの車輪になることを選ぶだろう。

「生活のために」、これは呪いの言葉だ。原発がなくならないのだって、もとはここのような気がする。あれはただの環境の問題なんではなくて、多分に経済の問題だ。リニアだって、そうだ。

だから僕はむしろ社会を、世界を変革するよりも僕ら自身の「生活」への思い込み、呪縛を解いていくことのほうが根本的、かつ実際的な革命なんじゃないか、と思っているのだ。もし生活するためのお金がいまの半分で済むとしたら?お金がなければ手に入れられないと勘違いしているライフラインを自分でなんとかできると知ったら?(お金がなければ、というのは裏を返せばお金があれば何でもできる、という思考とも繋がっている。故に、この何でもできるという考えも勘違いだ)

そうなれば仕事への姿勢も変わるかも、そうすればもっと会社より自分を大切にできる(してもいい、しても平気だと思いやすくなる)環境ができるはずだ、それはまた他人への余裕も呼び込む。自分がやりたいことも、ずっとやりやすくなる。

そして重要なことは、その革命は自分の命を賭して為すものには違いないとしても、それは人生が変わったと後から思えばそうだったくらいのもので、こっちのほうが楽だし楽しいと思わせるようなやり方であることが望ましい。水は低きに流れる。人間は、高潔であると同時に怠惰であって、理想的であると同時に便宜的で妥協的だ。その事実を覆い隠して「こうあるべき」という理想的な人物を置いて、それが当然のような規則を自分自身らに当てはめてしまうから苦しくなる。ダビデ像は理想像であっても、あなたの身体の本当の理想体型とは限らない、ということだ(それは、たとえば過去の日本においては「おかめ」が理想の女性だったことを考えれば、理想像だってその時代の産物にすぎないのだから)。

由理さんのブルキナファソの話。現地在住のお友達の車に同乗中、自動車の「底」がボコンと抜けそうになってしまって立往生し、修理を呼んできた2人組の男たちは道具らしきものも持っておらず、しばらくして「終わったよ」というので「大丈夫?」と聞いたら、

「しっかり縛っておいたから、大丈夫だろう」と平気な顔をして、しっかり代金をとって帰っていったそうだ。こんな話が今、同じ時間に存在している。この話を聞いて、僕の身体に涼しい風が吹いた。もちろん、それに付随するデメリット(という言い方がまず、嫌い)を引き受けなければならないといても、こういう自由の在り方もあるのだ。

スペシャルティコーヒー、という概念に対しての僕の疑問も同じところに端を発している。いい豆をいい値段で買えば生活が苦しい生産者もハッピーになる、というその思考自体が、ブルキナファソで自動車を縛るだけですむ緩さが人の思考にも及んでいる、その緩さを市場原理の思考に染めてしまうことに他ならないのではないのか?むしろ、現代人はコーヒーを飲み過ぎてるとは思わないのか?マイクロロースターといえども、一日に何十kgも焙煎し、それが幾つもある状況は異常ではないのか(非電化工房の藤村さんの話を思い出す。)?生産地まで足を伸ばして生産者たちの生活環境と触れることも素晴らしい、僕はでも、まず自分の足元を見つめることから始めることで起きる変化こそ、世界の変化なんだと思う。適性価格でコーヒー豆を買うことは、極端で穿った物の見方だとも思うけれど、いまの資本主義経済のなかでの価値に過ぎない以上、行き着く先はいまの我々となんら変わりないのではないか、その結果としての現在を果たして僕らは「ハッピー」だと感じているだろうか。それを押し付けるだけにならないだろうか。そういう思考なしにただハッピーとは僕には言えない、というだけのことなのだけども。

まずはいつでも問題にせざるをえない「生活する」、いや「生きる」こと、そこを見つめることからはじめること。むしろ、そこさえ自由にできるなら、どんなときでもいいような気がしている。

自分の「生きる」を知る、それは自分の身体を知ることではないか。

メンタリストが相手の心理を表情の変化や手の動きから洞察すること、それは心理が行動に現れているのではなくて(ここでも二元論的な落とし穴に嵌まっている気がするのだ。心理<>行動)、むしろ身体の動きが、ていうか身体こそ心理そのものであるってことではないか。

野口整体

身体は、自分に一番身近な「自然」である。

そこで、「森は考える」とも繋がる。頭だけでなく、自分の身体が思考していることを自分の思考として汲み上げられるようになること。

森は、社会の歴史とは違うかたちで歴史を持っている。遠山の二万年前のクレーターがもはや山と同化している、が、隕石が落ちたことの影響は間違いなく、ある。森の歴史を、身体の歴史を表現する言葉を獲得していないこと。それを探る。