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晴れ。

雪が全然降らない。

火曜日から日曜まで通しで喫茶営業。ほんとうは、営業という言葉を使いたくない。「君自身が持っている、「営業」という言葉のイメージを変えれば、別の良い面も見えてくると思うよ。」という声が聞こえてくるが、それでは僕には駄目なのだ。新しい言語を獲得しないと。それほど、言葉には強いイメージ喚起力というか、思考や行動をそっちに引っ張ってしまうだけの強さがあるのだ。

店先に数本の木が植わっている。暇な時間にハンドピックを済まし、テーブルでその木を観察。真っ直ぐに伸びて見える幹が、木によってはねじれるようにして伸びてる。幹から伸びる枝は下の枝と重ならないように同一直線上には生えてこない。その枝から伸びる少し細い枝は、地面と並行に伸びる親の枝の側面からイレーチにずれながら二次関数グラフの曲線のように上に伸びていくその姿が胴の長い恐竜の肋骨の骨格標本みたいにみえる。その子の枝から伸びるさらにこまい枝も隣同士が重なり合わないように生えている。それを観ていると、なぜか感動に近い、心が揺さぶられる感覚をうけた。そして、自分の手を見る。

木は、考えてそうしてるのではなく木の木たらしめてるところがそうするようにただ、そうなっている。窓に近い方はそれに合わせた枝の伸び方になる。木が考えてることは、考えるとしたらもっと違うことを考えているだろう。ぼくの指も同じだ。こうなろうと僕が考えてこの五本になったわけではない。人は普段認識できる意識の部分ばかりを取り上げてあぁでもないこうでもない、とやっているけれど、意識とか、なんて小さいところを取り上げて僕ら自身をわかったような気になっているんだろう。無意識や潜在意識というとき、心というどこにあるかわからないが身体の内奥にあるようなイメージを持って(潜在、という言葉からもそれをうかがえるだろう)いるけど、多分それって、この身体を身体たらしめてるもののことなんじゃないだろうか。

これは、ものすごい閃きだ!!

てか、最近はほんとにまず身体を取り戻すこと(でも何から?どこから?)が最重要な気がしている。社会的な問題とかもぜんぶ。今の社会構造を変えようと思ったら、身体への僕らの理解を変えるのが一番手っ取り早いような気がしている。という仮定をおくと、明治になって日本ががらりと変わったのは西洋の文化が持ち込まれたことより、それまでの日本の身体の動かし方、捉え方を剥奪されたことが劇的に効果を及ぼしたんではないか。と思えてきた。