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晴れ。

ダラダラ起きて、明日のパンを買いに行こうとすると寛大もいくと言うので一緒に買い物に行く。帰って、買ってきたパンを皆でつまむ。パンを独り占めする寛大、「マリオ、やってぇ」「タッタッタッ(とにかくただ走り続けるだけ、という過酷な遊び。走って喜ぶ人の気持ちは幼少期からもうあるものなのかもしれない)、するかぁ」「ダメー!でも、叩く!」「でも、いいんだもん」

イヤイヤ紀、絶頂。でも、手を上げるのも駄目とわかっていてやってしまった直後に「やってしまった!」感が湧いてきて、どうしようもなく自己嫌悪でまたイヤイヤが加速する、という大人の僕らとおんなじで、それに言語の獲得が少なくて、感情を人に伝えられないことよりも感情を正確に落とし込められずに「叩く!」とか「いいんだもん!!」という言葉にするしかなくて、そっちに引っ張られてしまい、そうじゃないのにそうなってしまう自分にまた苛立っているのがわかるので、ちょっと不憫。でも、この抑圧が本当に必要なのか僕にはわからない。こないだの保坂和志さんのトークでフロイトが抑圧が文化の成熟、だったか先進の社会だかに重要な働きを持っている、というようなことを言っていて、もしかしたらトークじゃなくてエッセイだったかもしれないけど、明治のころは外国人が往来を歩くと銭湯から、これも普通に混浴でみんな裸ではいっていて、物珍しさに往来まで見にくるのに服を羽織らず裸のまんま皆でてきた、らしい。それを文化ぎ未成熟だといっても物差しは明治以降に齎された西洋文化の物差しであって、未開や後進国という言葉を当てはめることで見失い、損なわれてしまうものは計り知れず大きい気がする。裸が恥ずかしいというのも、抑圧なのだ。こんな冬に素っ裸でちんちんぶらぶらさせてはしゃいでいる寛大を見てると思う。裸足で外を歩き出して皆に勧めていたとき、「なんで俺はじゃあ服を脱がないんだ?」と思って考え込んだことがあった、まぁそれはまたの話で、佐々木くんが見せてくれた、僕も気になっていた「natural fashion」というアフリカの部族のお洒落を収めた写真集のこととも絡めてぼんやりと考えたり忘れたりしている。単純に「服を脱ごう!」とかそういうことではないんだ、でも裸足はすごい気持ちいい。

寛大と遊んでいるとあっという間に時間が過ぎていて、出掛ける時間。甕さんの書初めに行く。取り出されたのは白川静の「字解」。そこでパッと開いて、パッと見えた一字を書くのです。で、パッとパッとやると出たのは「窮」。えー、むじぃ~。くるしむとか窮屈とか、極めるとかきわまる。可能な限り限界まですすむ。外に広げずに内にとどまりなさい、自ら外に働きかけずに自己の修練に向かう年である、ということをなんか方々のお告げで言われるこの頃。そういう年ということで、張り切って自分の中にダイブして1時間半あまり、延々と「窮」の字を書く。もしかしてら中学以来の習字かも。下手くそ。

なんか正月らしいことがしたいなぁと思って、折紙を折ってみた。猿とネコを見ながらおってみたものの難しくて、最後は適当。あっという間に夜中になっている。『横浜買い出し紀行』をなぜか久しぶりに読んでいる。僕もロボットになりたい。

それから小説の続きを少し書く。自分が書いているのにおかしいのだけど、なんというかたとえ自分の小説でも小説は自分とは別の生き物、といえばいいか、その書いている文章がいろんなことを教えてくれる。自分では思ってもいないことが書かれていく。

「たとえば桜もそうだ。狂い咲きといったって自分の環境の変化に反応して咲いてるんであって、暖かくなってるのに花が咲かないほうがおかしいので、狂い咲きの桜はむしろ正常だ。年中通していつもおんなじで、一年のサイクルも常に同じであるのが普通だと思っている人間のほうが、狂っているのだ。」

自分で読んで、なるほどなぁと思う。人に何かを伝えたくて書いてるのではなく、まずはとにかく世界を知りたい、世界と繋がりたい。小説を書いているとほんの一瞬、そういうときがくる予感があったりする、でも一つの文章になって固定されたものを読むと、

あまりの違いにがっかりする。本当に、もうがっかり。寛大といっしょだ。そうすると、小説が読みたくなる。読むために、書く。

でも、それより眠くなったらすぅっと寝れちゃうほうが、ずっといい。眠いのにもったいないもったいない、と遊び呆けていると次の日の朝がつらい。案の定、眼はまだ寝れるまだ寝たいときゅーっとなってる。