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晴れ。とても暖かい一日。セーター一枚で腕まくりをするほど。

正月らしい正月を、のんびりと過ごす間もなくはや3日になった。中学の時分からどうしてわかっていたことは、のんびりするためにはそれ相応の心算が必要なので、それがなくただダラダラ過ごしても心は晴れない。僕の場合、それは朝早くに起きること、これが肝要でそれがないからいけんかった。明日は早く起きよ、と決めてこんな時間から日記を記しはじめてしまった。

11時頃、日がつよく完全に空気が温まったなかで焙煎。3時間ほど延々と回し続ける。あったかいので、とてもやりやすい。集中力は2時間が限界のよう。回しはじめて途中で、あ、今年初めての焙煎だった。と心新たにするのが遅くなってなぜか少しばかり残念な気持ちがするのはどうしてだろう。焙煎自体には、これといって影響はない。全体的に、うまく焼けたと思う。焙煎のあいだ、ずっとピグミーの歌のフィールドレコーディングを聴きながら。森の人の歌だ。緑と土と影を透き通った清水が頭のなかで流れていく。

正月が好きで好きで、どうしてこんなに心躍るのか不思議だったけど、子どもの頃と変わらず待ち遠しいそのワケがわかったようだ。大晦日の夜や元旦、日が上り街がもう目を覚ましている時間。その時間になっても、普段なら車通りの多い環状線やバイパス、旧中心市街地にも殆ど人影がなくって車通りも極端に少ない。冬のしんとした凍える冷たい空気が、余計に際立って、でもそれが心地いい。誰もが、炬燵に当たってぼんやりと無為に時間を過ごしても何も気をとめなくていい日。つまり、誰も働かなくていい日であることが、そして街がいつもと様子をがらりと変えて、記憶の街みたいになってるのが好きなのだ。だから、大雪や台風が好きだ。福島の富岡町に行ったとき、時間が取り残されて草原に飲み込まれた富岡駅や家屋を見たときに感じたのと同じ、美しさに魅了されているのだ。同じ理由で、最近の正月がつまらないと思うのは初売りが元日からやってることだ。大晦日までお店が開いてることだ。どこもかしこも閉まっているから、夜ポツンと看板がついている呑み屋があることに心躍るのだが、僕の郷愁のような願望に付き合う義理など誰もないわけで、バーテンダー時代に毎年毎年相も変わらず、年始のご挨拶にまで来てくれたお客さんに「3が日くらい、みんな家でのんびりした方がいいと思うんですよ」などと矛盾したことを言っていたのは冗談でなくて本心。この日ばかりは一日テレビも許そう。駅伝を延々観るのもいい。実際に見にいくのは、ダメ。

とはいえ、働かなければいいのにということでもなくって、同じ世界であるにも関わらず普段とどこか、でも決定的に違う様相を呈している、ということに心躍ることがわかって嬉しかった。

同じようなことで、炊飯ジャーが苦手な理由も明らかになった。電子ジャーから底の浅い茶碗に白米をよそうことが、寂しい記憶に繋がっていたからである。

アートハウスで、愛媛の福なんとかさんの蜜柑を頂く。林檎の木村さんに関わる話の人の蜜柑である。それから昨日の水炊きに味をつけてラーメンにして夕飯。二日間の暴食に、今日は朝から何も食べなかったので腹ペコ。ツタヤに行くと営業が20時までで、時計を見たら19:59で、諦める。『竹光侍』をなぜか読み返し、『残光』『寓話』を交互に読む。

ああ、日が変わってしまった。体幹動かして、寝ます。