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10月7日

晴れ。

昼間の陽光は温かいけれど風は冷たく、もう裸足だと少し冷たい。


昨日1時過ぎに眠り、6時に目が覚めてしまい、それからウトウトすると首の強張りが取れて、隈もない。

ひどい時になると、こないだは起きた時に「あぁ、生きてるのが辛い」とはっきりと言葉にしたのか言葉にせずに思ったのか、こりゃいかんと思ったが布団でグダグダしていた。

それとは全然違うのだけど、夜か夕方、1人で歩いていて突然、「そうだな、やっぱり最期は自殺しかない」とドュルーズのことが頭に浮かんで、この考えが自然に納得できた。今はもうその納得が消えてしまって、そこには論理的な帰結があるわけでもなく、直観のようなものなのだけどだ、からといってこの考えの強さが消えることはなくて、むしろ論理は思うより世界にあわないところがまだ沢山あるのがわかるだけだ。が、この考えは別に希死念慮とは全くの別物なのはまちがいない。

胸椎がくっついて胸が苦しくてゲップがでないのを半時間も布団の上でもだえて動き回っていたのを、優子さんが来て背骨を指でなぞるようにさすると、5分もしないうちに「ほどけたほどけた。」と言うのと同時に胸が緩んで溜まった空気が抜けていく。僕は頭ばかりで人に整体を勧めているが自分の体一つままならない。本当のところ、優子さんが名医なのだ。起きて、「僕が金持ちだったら、今の5分に2千円払う!」と言った。

高校の時気管支炎にかかり、一晩ろくに呼吸ができなかったことがあり、そのとき考えていたのは「死にたい」ではなく「楽になりたい」だったことを今でも覚えている。この状態から抜け出すことこそが願望なのだから、当然といえば当然なのだろう。そして、朝起きたときに「生きてるのが辛いなぁ」とおもうのも、背中の不調と経済的不安からくるものであって、冷静になってみればどちらも生死には全然関わってないのに、思考がそう飛躍していることに気づいていない。要するに問題をすり替えているのだ。

生死、というのは実のところ、とことんまで身体の問題なのだ。そして、身体はいつでも自身を治癒しようとしている。どんなに年老いても切り傷ができれば、かさぶたをつくるだろう。(ただ、治癒は治療とは違って、最適化。というのにもっと近いきがするのだけれど)

生きたい、死にたいというのはいつでも頭のほうであって、もしかしたら身体自身は生も死も、知らない。だからいつまでたっても人間は知識を得るような形ではずっも、生死を知ることはないのではないだろうか。


あれ?それじゃあ、いま生きてるってことを身体はどう受け止めてるんだ?しかし今、僕自身に浮かんできた「身体は生死を知らない」という示唆は僕自身をすごい興奮させてくれている。背骨と首の右側はいまだ調子悪いが、昨日よりはだいぶいいみたい。