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8月28日

雨。昼間、曇りのあいだここぞとばかりに蝉が鳴いている。そこに真夏ではなく、夏の終わりを予感するのは夜中の虫の音がしだいに勢いをましてきたのが思い出されるからかもしれない。


左のかかとがまだ痛む。ペルーを1kg焙煎。気温がぐっと変わってからの焙煎の調整も安定してきた。最近自分が求める味の輪郭がはっきりしないので、美味しいコーヒーを飲みに行きたくなって、今日帝都東京に上るのだ!と昨日急に決意するも夜、樋口さんの空き家の話があったことを思い出して、悩みに悩んだあげく東京は次の機会にまわすことにする。


夜七時からアートサロン。高橋さんが電話をくれて、熊楠の新しい書簡を発見した神田さんという方がいらっしゃる、ということを聞いて心踊る半分、いや二分に恐縮八分で出かけるもほとんど話を聞けず挨拶だけ。なんと阿保な自分。

前回でも同様の印象だった、樋口さんはやっぱりただ昔のものをそのまま残すことを無闇に良しと考えていないんだろう、というかそれは懐古趣味に堕するだけで山村の集落、小さいコミュニティが生きていくことには繋がらない、と思っているように感じられた。とても優しい口調で真摯に受け応えをしているその言葉には、でも容易に結論づけてしまうことに対する注意深さがみてとれた。驚いたのは、高橋さんが「戻す」というのが一つのキーワードだとおもう、と語ったことだ。僕も全く同じことを考えていたからだ。とはいえ、結論は逆を向いているのだけど。それで、「どこまで戻ることがいいのでしょう」と訊いてみると、「戻れるだけ戻るのがいい。私たち(村の人々)はとりあえず90年代を設定している。でも、それは具体的に「ここ」と決めてしまうのではなくて、そのつど目指されるところがある。」ということだった。しかし、ただ戻るだけで本当にいいのか疑問は残る。裸足で歩きはじめた僕が「なぜ、では服を脱がないのか」という壁にぶつかったことを、思い返してみる。そして丁度読んでいた、(中沢信一を通した)熊楠が、ただ緑豊かな農村を良しとしたわけではなかった、その理由がやはり僕たちにも必要なことだと思われるるのだ。

サロンのあと、麻美ちゃんと祐介くんと三人で中華料理で遅い夕飯を食べる。あのぶっきらぼうな接客にホッとするのは三人とも接客する側だから。二人のやりとりにホッコリして帰ると、タオルで覆われたコガネムシがいてそれを逃がす。綺麗な緑の輝く、光の具合で黄金色に光る。

虫も僕に色々なものを教えてくれる。