8月2日

晴れ。


書こう書こうと思いつつ、日々忘れたときに思い出せるように記録しておきたいことがままあることを、明日あしたと先延ばして忘れる日々が最近続いている。たとえば、


今日ゴンドラの中で考えたことは…もう思い出すのにタイムラグが発生している、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という小説の文章の文法的脱臼は、社会のルールは、こんな文法という細かなところまで及ぶそのルールは世界を閉ざす。小説という量のある散文のなかでこういう逸脱が起こることは、とくに僕が知っているなかでは小島信夫がすぐに思い浮かぶ、その小説がドライヴする、とかグルーヴが生まれる。前回の日記で書いたように、小説は言葉にならないものを言葉で描く。だから小説の文章がもっているものは、あらすじを読ませるための意味だけではなくって、もっと大きなその作品固有の流れを作り出すためのそれぞれの装置なのだ。同じあらずじや内容を書かせても、作者によって、読んだ印象はまるでちがうものになるだろうことは容易に想像できる。

学校で教える国語のつまらなさは、そこにある。まるで「正しい」言葉があるかのように教えるけれど、そんな正しさをよしとする考えは、自分の身体を無視して行進を続ける奴隷根性を生むだけだ。絵もそうだけど、姪っ子やまわりの子ともがお絵かきするときに、もう適当にクレヨンを手にとって飽きるまで塗ったりちぎったりしてたのに、

「このお空は、何色に塗ればいいの?」と聞かれたときに本当に馬鹿なことを教えやがって、と無性に頭にきた。作文もそう、自分の考えたこと、心に残ったことを書くことを優先されず、大人が求める「こう思うべき」とおりの感想文や旅行記を書かないと書き直しにされる、あの息苦しさ。

社会は、そういう要請にあふれている。時々、それが本当にいやになるときがきて、そのために自分で仕事をはじめたのに、その要請にこたえようとしている自分がいやになる。まわりにいる、どこかおかしい、社会の要請より自分の欲求のほうに素直でいられる(、というこもは周囲からは疎まれる)友人たちに会うと肩身が狭い。同時に、世界の壁がぱーっと開いていく実感があって、それはとても気持ちいい。

もうほんと、社会のことなんか考えることはつまらない。やめたい。

仕事を、生活のための賃金を得るための最優先のものと位置づけて、にも関わらずそうとは意識せずにやりがいだ、より良い社会だ、もっとみんな頑張って…とかいう人の話が、なんと狭くて息苦しいことか。なんてことまで、ゴンドラの中で考えてはなかったけれど、そのときじゃなくてもこの流れでいつもそういう考えに流れる。


木曜には、コーヒーの淹れ方ラボを開催したのだった。なんて自分の話はつまらないのだろう、もっとケタケタ笑いながらやりたいと思ってたのだけれど、自分の固さが歯がゆい。真面目な顔で真面目な話をすれば真面目だなんて、本当にそうなの?と自問しただろうか。してください。

土、日と出店。りょうにそっくりのまだ若いお母さんがいて、とても美人だった。売り文句にも力がはいるというもの。