読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

7月20日

快晴。


昨日からはじめた9月末までの週末出店はのっけから土砂降りで、参ったなぁと思ったものの様子見も兼ねての初日であるからして、この日で良かったなと思うことにすると、二日目は快晴である。これはいい、と思うと午前中は全然出なくて、昼時には隣の五平餅は売れ行き好調、こいつは失敗したかなと思い、いやまだ何も試してないよね、やっぱり商売と割り切るなら看板をつけんといかんな、と今日は看板替わりに声をかけていくと、午後から徐々に水出しを飲む方が増えてくる。手に取ってくれた人はみんな美味しい美味しいといって喜んでくれるのだけど、一見でもう会うこともない場所である、飲んでもらわにゃ始まらないので話をしながらどんな言葉で看板にすると人が寄りつきそうか会話の反応から拾いだして、構想を練った一日。暑かった。しかし今週末はふたたび台風が接近するらしく結構悩みの種である。バーナードを連れて一緒にいてもらおうかな、お客さんの足をとめるのだ。


腰が痛い、ゆえに背中が詰まる、ゆえに眠りが浅い、ゆえに目がショボショボする。なんと宮下くんが本部道場で活元運動の経験があるという事実をしって、会をやりましょう!とお願いしたらこころよく受けてくれた。近いうちに場所をとって人を集めよう。先週のライブ前に隣で「緊張するなー」というので、鷹取の手なんてのがあるよ、といって形をやってみると「あれ?何この、なんでもござれ感?」と驚きの効果。手の形によって横隔膜を下げることで意図的に脱力した状態を作り出す、ということでこれはヨガのポーズや座禅を組んでると気が落ち着くってのと同じことで、言ってしまえば武術の動きはみなどれもそういうことなのだろう。武道と精神の関係でいうと、そもそもが行儀や道徳に向けられたものではなく、いかに身体の運用で精神の平常を保つ、だけでなくていかに精神に変化させるか、ということに向けられたもので、それが指先の形ひとつで作用するような緻密で細かい、でもそこにこだわらない身体への働きかけが肝要になるのだろう。義務教育の体育で柔道や剣道をやることの意義は、だからそんなお題目には適っていないと思う。

これは余計なことを言った、とにかくそういう細かい身体の動きが精神に作用するとなると、もう身体と精神を二極化する思考じたいに無理があるのがわかる。身体と精神は言っちゃえば同じ一つのものをむりやり剥がして、断面は見ないことにして(身体と精神を繋げる連結部分なのだらか、見る必要なし!ということにしてしまうので)別々のところから表面を眺めているようなもんだ。

絶えず変化する水の流れが世の常なれば、それはひとにおいてもそうであり、「私は何某です」と指し示すことができるのはもう変化しないもの、つまりは死だ。でなければ「私は何某で…、あ今某に変わったのが私……あれ、あいえそれは一部分の何某で、ここはもう変わったところが某……元に戻って何某で」と終わることはなくて、終わるときはそれは死、言葉はその構造上、固定化されたものでしかなくカオスを表現する言葉は、ない。ということは小説は言葉で書かれたものだけれど、言葉では表現できないものを描くものだ。(だから何が描かれているかは意味を追い、粗筋に圧縮したらもうそれは山とその写真くらい違うのだろう。それこそ書かれた文章全てがあってはじめて、意味があるとすれば意味があることになる)

ここで僕は考え込んでいる。

「事実にたいしては植物学者のような態度。文体の統一とホメオスタシスを破壊する、エロス的な生命の次元の、大胆奔放な導入。まじめさを吹きとばす冗談の嵐。それを表現するための、星雲状に拡大していく一見とりとめもない文章。「全体性の統一は、存在する。だが、それは文学の実現できるレベルにはない。なぜなら、それはマンダラの秩序としてあるからだ。本質的にヨーロッパきんだいの体験である近代文学のもっとも深遠な可能性は、そのポリフォニー的構造にある。だが、ポリフォニーマンダラの間には、根本的な差異が存在し、熊楠の考えてば、ただマンダラ的構造だけが、生命と物質と現象を統一する「全体性」を表現することができるのである。」

マンダラポリフォニーの差異とは何だ!?ポリフォニーと聞いてすぐ思い出すのはやっぱり『寓話』だ。そして森敦とのやり取りで、確か電話越しに持ち出してきたのがマンダラの話だった。四国のお遍路さんは立体マンダラとして立ち上がらせようとしたのだ、そこを歩くということは、取りも直さずマンダラ世界に入っていくことなんですよ、という刺激的な話。小説の可能性があるなら、それはなんだろう。一つわかっていることは、新しい言語の創造、自分にとっての言語を、いいかえると自分の身体から生まれた?身体と結びついている自分だけの言語を獲得すること。たとえば小島信夫を、たとえば山下清を読むということは、小島信夫を、山下清の身体的追体験をするということ、自分の身体の使い方をそのとき入れ替える、ということなのかもしれない。そうなのだろう。だから、読書とは頭の中ですることではなくって、身体運動なのだ。でなければ、そうであるようにすること。