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7月9日

終日、雨。強くなるか弱くなるかのどちらかで、一日中やまない。午後3週間は、火曜日はいつも雨が降っています。


ふと思い返すと、久しぶりに梅雨の雨のなかにいる気がするので記憶をたどってみるけれど、いつから梅雨らしくなくなったのか今はもう思いだせない、庭の畑の野菜も戸惑ったりするだろうか、植物は季節の記憶をどんなふうに持っているのかとぼんやり想像していると、庭の畑の野菜は今年、種をまいたので去年の記憶はないのだろう。それとも、種がうまれた去年の花が、やっぱりあるんだろうか。


バイトから帰るとコテンと眠り、けれど朝いちど目が覚めてしまい、眠ってまた覚めた。最近はそんな感じで身体動かしたほうがよさそう。

起き出すともう昼が近く、いそいで小屋に向かいエチオピアの焙煎。

酸味を存分に感じるハイローストでとめるより、2ハゼ手間かさらにそこから焙煎をすすめるとナチュラル独特の発酵の香りがぐっと引きたってくる。生豆の状態で嗅ぐ香りは、まるで酒蔵にほんのりと広がっている麹のあまい香りがする。まえ、インド・モンスーンを深煎りにしたときなんかはほとんど鶏糞みたいな香りが豆からしてきてこれ大丈夫かいな!?と訝るほど。そのやわらかい、ふくよかな発酵臭を表現したいのでやっぱりシティローストまではもっていく。水分抜きの段階で今までよりも火力を抑えるポイントを早くもってきて、逐一豆を割ってみると、予想通りに豆の内がムラなく焙煎がすすんでいった。

ブラジル・ハニーショコラも、エチオピアとおなじにポイントをずらすとやっぱり煎りムラがなくなる。割ってみると、いくぶん水分が含まれているようにも見える。これは味をみてからじゃないと何ともいえない。(焙煎したてを飲んでみたら、若干煎りが浅いところでとまったようにも感じるけれど、随分クリアでうまい!コーヒーになっていた!)

火曜日の空いた時間にグレープフルーツを使って、抽出のイメージの実験をやってみると、ドリップとプレスの味の違いをうまく表現できる手応えあり。そして、その違いは浅煎りと深煎りとの違い、というか酸味と苦味の出し方の差に繋がってくることがこの実験でわかった。だいたい、同じドリップなら浅煎りと深煎りで抽出を変えるのも当然といえば当然のことだった。というわけで、挽き具合と抽出のスピード、さらにおとす湯量も焙煎によって変えてみると、ペーパードリップで特に浅煎りのコーヒーの味がぐっと変わった。が、岩本さんに飲んでもらうと「こっちのほうが僕は、好き」と言って指差したのは湯量をかえる前のだったりして。結果、今回はっきりしたのは自分が求める味に左右されなさい、他人のそれは他人のそれである。ということなのであった。


「ーー説話は、民俗の「原子」の豊かな内容を、抽象化し、説話形式の要求にそれをしたがわせようとする本質を、もっているのである。(略)問題は、説話が人を引きつける魔力をもっている点だ、と熊楠は力説する。それは誘惑する力と酔わせる力を、もっている。そのために、上手な説話を語る人々は、しばしば嘘をつく。ナレーションやドラマツルギーのおもしろさのために、思考の真実を犠牲にしてまでも、彼らは説話の誘惑に身をゆだねようとするのだ。」

民俗にかぎる話ではないのはもちろんのことだ。そうして、僕らはしばしば、むしろ頻繁に自分が「嘘をついている」ことに無自覚であることも、忘れてはならない。いま、僕が目にし耳にする話はほとんど説話だ。それは、どんどんと思考の真実を追いやっているようにみえる。指を差し出しても絡まらない胡瓜の蔓があれば、空中で丸まる蔓に指を差し込むか、茎ごと抜き取ってしまう。そうならないための態度は、熊楠の、観察する目としゃがんだ姿勢だ。

(承前)「民俗としての思考の真実は、たいていが深く、重い。早い話がやぼったく見える。それを捨てて、軽さやはなやかさやスマートさへむかうようにと、説話は人々を誘惑するのだ。そこには、都市と近代が発揮してきた魅力と同質のものが存在する。」