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6月25日

曇り。


畑の二十日大根も大きく丸くなってきた。間引きを躊躇してチョコチョコとやったからか、かたよせあって小ぶりのものか多いもよう。ルッコラの濃縮感がすごい。


夜、アートサロンで樋口さんという方の話を聞く。歩いて小屋や街中のブリコラージュされた家並などを撮った写真、スイスの小さな農村や街並が残存している状況やその民族性などを実体験から紐解いていく話、飯田の街歩きで広がった視点や時間の話。ジャコメッティが育ったムラの写真をみると、街を囲む石塀と牧草地の間に伸びている木々が、あの削ぎ落とされた人型の手前でスケッチされた木々そのものにみえて興奮する。横浜市トリエンナーレでの、校倉造?の小屋もすごい。やっぱり、焙煎小屋の柱も妥協せずに廃材を使えばよかったと、少し後悔。対話のなかで自分の思考にリンクすることが沢山あって脳がぐるぐる回転するのを実感していた。僕がなぜ、お金をかけずに小屋を建てて珈琲焙煎をはじめたかとか、福島に行った時に僕のなかで形作られた自然の姿とか、いつか聞いてもらいたい。

参加した人たちと話をするなかで、昔の家屋や伝統をそのまま残したいという気持ちが滲みだす会話も交わされるなかで、樋口さんは丁寧に言葉を選んでそれに応えていた。樋口さんがピーター・ズントーの建築に惹かれたところや話の最初にでてきた「グラデーション」という言葉を思い出すとそこに対する視点ははっきりとあって、容赦ない時間の流れ(過去→未来)に惹かれるのもそこにあるのだろうと思った。飯田街歩きで飯田藩時代からの水路の変換をトレース紙で現在図に重ねて楽しむのもグラデーションで、家屋の傾きやヒビや増改築の痕跡を写真におさめるのもグラデーションで、そのグラデーションをつくっているのは時の行政や国ではなくて、あくまでそこに住んでいる人たちなので、それは今ここで、話を聞いてくれているあなた達のことです、と言っているようにみえた。

スイスの小集落が残るのは、自分が生まれ育った集落に残ることが、進学したり上京したりすることと一緒に選択のなかに当然のように入っている将来への考えがあって、公用語が4つあり、個々の習慣や文化もまたゆるく切断されている国としての背景もある。だから、そのまま日本にその思想をもってくることはとても危険で、下手をするといま実学を優先して国ぐるみで貧困の再生産の道を進む可能性すらある日本を加速させることになるんじゃないか。重要なのは、まさしく樋口さんがスイスの人々に対して感じたように、一人一人が我がこととして引き受け、思考することで道を見出していく他ない。

この会を主催されている高橋さんという方が、たまたまそのとき持っていって(本を持ってると落ち着く)いま読みはじめた「森のバロック」から話が広がり、2年ほど前に土宜法竜との書簡が百何通新しく発見されたのを一冊にした書簡集を持ってるから読みなさい、と言って貸してもらえることになった。

空き家の展開の話が3件にも増えて、いよいよ何か始める時ときなのかもしれない。でも、じゃあ一体何ができるだろうか。楽しみもあるが、まずは地力をつけなけらばいけない。長い時間をかけて積み上げられた文化、たとえば家屋の文化は、楽しむためにとか儲けるために、というところではなくて自然に対していかに向き合うか、まさしく生死をかけたときもあったはずで、ただみんなで楽しめればいい、お洒落なものであればいいじゃん、といった簡単な思考で終わってしまうなら、やったって咲きは見えてる。しっかりと、考えて、かつ踊るように楽しむ方法を。