6月17日

晴れ、のち曇り夕方から雨と雷。


今日もキュウリは巻きつかない。ピーマンを採って、二十日大根と大根を間引いてくる。ルッコラも大きくなったのからどんどんとらなきゃ、と教わって明日はルッコラをとることに。お腹が空いたのでパンを焼き、オオヤさんとパドラーを1杯ずつ淹れる。優子さんが「苦い」と言いながら、カップを出して「オオヤさんがいるよ」という。パドラーのグァテマラはコーヒーとして美味しい味がする、オオヤコーヒーはオオヤさんという人が考えるコーヒーの美味しさがある、ということ。なかなかうまいこと言いやがる。

パプアニューギニアとエチオピア、ペルーの焙煎。まだ、火力の流れと豆の中の焼き具合の相関関係を掴みきれていない感じ。焙じた豆をコロナル面に割ってみると、豆は輪ゴムの輪っかを潰してクルンと巻いたような構造をしている。その輪っかを潰してゴムとゴムがくっつている面のことを僕は豆の芯と呼んでいるわけですが、だから豆の中心のことではなくて、その芯のところから黒く焦げやすい。たぶんその芯の隙間に多く水分が含まれていて焙煎の初段階で水分を蒸発させていく感じなので、豆の中心部分に火が通るようにイメージしてしまうと必然的に豆のなかでムラができてしまうのだろう。

割れる音を聞くとたしかに音が違って、割れた瞬間にキィーーンと耳鳴りが起こるくらい高い音が出るときがある。断面も裸の目でみてもデコボコしているものとつるりと滑らかなものがある。


水曜日はいつもバーの仕事。小林さんがお連れの方と聞きつけて呑みに来てくれた。そして、今僕が何を考えて今の生き方をしているのか喰いつくくらいにカクさん(仮名、名前を聞き損ないました)が興味を持ってくれて、あぁでもないこぉでもないと語りあう。そのとき、「自分にはボンヤリとしか見えないものが、けっして不確かなものだとは限らない。」ということで、なかなかうまいこと言うなぁと感心する。僕自身が言ったんだけど。そして、人が生きること、生活すること、労働すること、これらに違いはあるのか、たるのならどんな風に違うのか、自分はどれなのか。世のため人のためという時、その人、世はどこの誰なのか。ゴッホは生前一枚の絵しか売れなかった。ニーチェは七冊だ。それでも続けたのはどうしてか。木村さんの無農薬の林檎はどうか。

「コイツ(僕)をそんなに不安にさせるなよ」と小林さんは言ってくれた。ほんと、僕はとても不安。でも、実はその不安は皆にあるものなのだ。そして、本当はその不安が引っ張ってくれる依り代なのだ。不安と確信は同居する。