4月18日

晴れ。風も落ち着き、暖かい陽気。


こんな日に仕事してるなんて、僕はバカじゃなかろうか。


日中、

ペチュキュィ、ペチュキュイ、ピュピピュルルル…キュイキュイキュイキュイジジジジ

ツバメがずっと鳴いていて心地いい。休み時間ごとに外に出て日向ぼっこをしながら本を読む。よく見たら、軒先に巣をこしらえていた。


「あなたは暴走した列車に乗っている。二股に別れた線路の先には、片方には5人、他方には1人、動けないでいる。さて、あなたはどちらへ向かうのか」という正義についての話を思い浮かべた、ほんは読んだことがなくて話に聞いただけだが、これは設問を読めばわかるとおり、答えがない。どちらが正義であるとは明確に名指すことができない、ということなんだろう。

設問が悪い、というとしたらそれは世の中をちゃんと見ていない。いくらでもこんな理不尽な選択は待ち構えているのだ。

1人を助けて5人を犠牲にしてしまったのち、私のしたことは正義だったのか思い悩む。この、思い悩むことこそが重要なのだ。これが、「私のなしたことは正義だったのだ」と5人の犠牲を止む無しとする。早晩、彼は「わたしが正義なのであり、わたしのなすことは正しい」となるだろう。正義が求めるを彼が為すのではなくて、かれが為すことがすなわち正義となり、どのような蛮行でさえ正義の名の下に平気でなされていくだろう。

つまり、最も正義に近いものがあるとすればそれはそれぞれの選択を「これは本当に正義だっただろうか」と内省しつづけることでしかないのだろう。だから自分の口から「我々は正義だ」「正義の戦争なのだ」などとのたまう者がいるとしたら、その人はもう正義からかけ離れている。