4月16日

晴れ。

昨日の夕立のような雨と雨上がりにはツバメがニ羽激しく飛び交っていて、今日は雀が鳴いている。昨日までどこにいたのだろう。あ、そうか昨日のツバメはきっと交尾をしてたのかする前かだったんだろう。雨の下、轟々と流れる水増し濁った川の上でお互いにぶつかるように直線的に交差した二羽のツバメ。


先日原さんと話したお金を稼ぐ話を、まだしつこく考えている。どうして、僕はあの回答者の考えに激しい反撥を感じるのだろう。原さんのいう「価値の創造」も、それは確かに素晴らしいことかもしれないけれど、この文脈でそれが語られることに警告に近い抵抗がぼくの中で叫んでいる。


いま気づいたのでいきなり横道にそれるが、まず質問者は倒錯している。文面からすると質問者は会社勤めであろう、ということはいくら大きなチャンスを手にしたとしても彼は恐らく給料制だろうから、ボーナスや査定に影響することはあってもどれほどのチャンスを手にしても彼の稼ぎが大きく変動することはない、ということだ。であれば、彼が感じてる得はいわゆる俺得ではない。じゃぁ、誰得なの?この時点で、回答者が質問者に向かって「大いに稼ぎなさい」というのは方向がずれてやしないだろうか。

ここまできて僕はハッとした。質問者はどれだけ大口の儲けを発掘しようが下手したら稼ぎは変わらない。そのなかで、「価値の創造」だったり「世の中を豊かにしよう」と謳われ鼓舞され、彼自身もそう思って努力する。

彼が向かおうとしているのは「やりがいの搾取」ではないといえるだろうか。これが僕の妄想で、本当は質問者の努力がきちんと結ばれるならいいと思う。でも、僕にはあまりそうは思えない。

たとえば「従業員は家族」という言葉は一見美しく聞こえるかもしれないけれど、これは僕にとっては「労働を、あたかも労働ではないかのように仕立てること」に見える。そうすることで言う側(つまり雇用の側)は何をしたいのか、それは家族と労働の違いをみれば明白だろう。


恐らく僕は、自分の人生が価値という言葉でまるまる市場原理に飲み込まれてしまうんじゃないか、てことに過剰に抵抗があって、ビジネスの土壌で「やりがい」とか「人生」とか「価値」とか「豊かな世界」いう言葉がこれほど交わされることに反応している。

資本主義が、「伝統的な「意味」のヒエラルキーの解体」であって、「全ての交換価値へと<非意味化>する運動」であるなかで浅慮に「価値」と声高に語ることへの危惧。

そして、ただただ楽しみのために何かをすること、貨幣であれ物々交換であれ、そのなかで対価など発生しないものに没頭する人、この社会の流れにのらずただのらくらと生きてる人、うまく生きるのが下手な人、そんな人がまわりにどれだけいてくれるかが、野良猫みたいな人間。僕の先生は野良猫だ。