4月2日

快晴。


陽に当たると身体が気持ちいい。昼間、屋根と壁に遮られて陽に当たれないこの社会、なんか大丈夫じゃないのはこのせいなんじゃない?と思うほど、心地よい。

日向ぼっこをしていて、ピルピルピュイーと鳴く鳥の囀り(A)、遠くの車の音とすぐそこを通り過ぎる車の音(B)と、急いで道路を渡るおばあさんが突っかけをする音(C)、用水路を流れていく水の音(D)、他にもいろんな音が一度に耳に入ってくるのに、全部わかるのに驚く。

鼓膜は一つしか、二つの耳だから二つしかないはずだが、音は振動で、鼓膜はその震えを受信している、と理科の授業で習った覚えがある。その受信の仕方がわからないけれど、音の振動はそれぞれ幅があって、鼓膜は一度に様々な周波数の振動を同時に受け取れるのだろうか。だとしたら、混線しないのか。(1)

それかA.B.C.Dを同時にではなく、実はデジタル信号みたいに、人間がわからないくらいの間隔でAの音を遮断してる隙間にBかCかDの音を受信してるんだろうか。(2)

音楽を聴くときを思えば(1)のほうがありえそうだけど、科学的に(1)、(2)のどっちが正しいのか、どっちも正しくないのかわからない。が、いずれにせよ自分では認識してないところで鼓膜が動いてそれぞれの音を同時に拾っている(ように自分に思わせている)というならその複雑さが、別々にであれば自分には同時に鳴っていることを鼓膜の受容ではなく周囲のほうに合わせるように自分自身をごまかすその大胆さがすごい。

つまり1人の人間としてここで日向ぼっこしている僕は、いま僕自身が「自分」と言った時に無意識であれ想定している「自分」の枠よりも本来はもっとずっと大きな拡がりを持っている、ということなのだろう。時々そのことに気づく、身体はなんて頼りがいのある、前向きにしてくれるというか幸福な感覚。


夜寝て、夢を見る。僕は店を開けないといけないので久しぶりに準備をしていて、いつもの夢のように準備が終わる前に客がきて(そして、夢のなかではいまだかつて一杯も酒を提供できたことが、ない!)、いやその前に準備が滞る理由が「なんかいつもと店のつくりが微妙におかしい…?」となってよくよく見ると、

さっきまで二つ繋げたカウンターの一つがビリヤード台であっことに気づいて、すると自分が今いる店は姉妹店の別の店であるのか、と思ってる間に客がくる。店が変わってからは一度も合わなかった開店以来の常連、篠田さんが珍しく入ってきて(現実ではもう5年近く会っていないことになる)、篠田さんは水色のセーターを着ている。

「篠田さん、そのセーター俺も持ってますよ。義理のお祖母さんが編んでくれたやつですけど」

「なによ、なかなかセンスあるじゃん。おらぁたと同じものとは」

店はビルの上階にあり、扉を開けるとそこにひろがっているのは地元の地方都市ではなく、東京のような巨大な都市である。が、再開発が頓挫してそのままになっているような寂れっぷりで、そこここに空き地が目立つ。かくいうこのビルも年月が経っていて、鉄の非常階段みたいな赤錆びた階段をカンカン二階分ほど降りるとガランとした、明るめの事務所のような部屋がある。

その部屋に備えたカウンターのような長机と椅子が定位置でそこに座って何かしていると人がポツポツと荷物を持ってくる。学生時代の彼女までなにか持ってきた。僕には助手だかバイトらしきコがいるのだが、誰だか思い出せないが手伝ってくれて話をしたり荷物を預かるのだ一体これらは何なんだかわからない、わからないのに僕はわかっているようで二言三言、言葉を交わして人々は非常階段を降りて去ってゆく。この大小の荷物は持ち主の様々な思い出の外部記憶装置であるらしく、ここは思い出を預かる店なのだった。


夜、お兄さんの誕生日を祝ってケーキを食べる。久しぶり、ケーキ。TVの歴史番組で龍馬のことをやっていた。僕はなぜか、全く、龍馬の偉大さの理由が理解できていない。それほど称えられる人であるのが、どうしてなのかわからない…。この番組を見てもやっぱりわからなかった。