3月23日

晴れ。すこし寒さが戻っていて、寒の戻り。というやつだな。


書きたい、描きたいという欲望はどこからくるのだろう。昨日、磯崎憲一郎電車道』を図書館の新潮連載で読んで、山の中の洞穴に住み始めた男は村人との施しや交換もありつつ自給自足をはじめる。

去年知り合ったトキさんは、農業で自給自足している。車のガソリンは天ぷら油だ。ウンチはコンポストで堆肥となり、紙は分解され難いから葉っぱを使う。どの葉っぱがいいか探すのが散歩だ。そういう生活はまさに生きる術としてのars(アルス)=artであり、とても憧れがあるのだ。

同時にそこに本当には自分のやりたいことではないのじゃないかと思わせる、もう一ついつも考えることは、その生活に入ってしまったら、小説はどうなってしまうのだろう。

小説なんでのが生まれるずっと昔から、生活は営まれてきたので、その頃小説を書きたいと思う欲望はいったいどんな欲望だったのだろう。そう考えると、音楽はすごい。

結局のところ自給自足の生活に憧れがてるのではなく、千日回峰行のお坊さんでも、そのお坊さんに会ったら「あなたがそれをしていた十年間のあいだ、僕は毎日小説のことを考えていました、と言う。」と言ってのけてしまう保坂和志でも誰でも何でも同じで、自立に憧れているのだ。自分が何に依って立つかをちゃんと自分で決め、裏切らない。決めるより、わかる。かもしらないが。自分の身体が何に依って立ちたいのか、立つのは身体だからね、そうして念ずれば現ず。身体に依る、というのがまず一番に依るべきところではないですか。


本屋でウンチの本を見つけて、タイトルを忘れたが、最近ウンコに興味あるんだよね、と言ったら「前からだよ」と言われた。僕は前からウンチ好きだったようだ。ウンチはすごい。坂口恭平の「カリスマホームレス」の長明さんという人は、人の糞尿に勝る堆肥はない、と言っていた。ウィタ・フンニョリアスという本を随分前に買って、そのまま開いてなかったので読んでみることにする。今日のウンチも黄土色で調子よい。ぼっとんなので匂いの確認はできない。