2月22日

雨。


マンデリン・アチェアルールバダ200gを焙煎。やっぱり、初段階の火力が要。焙煎が進んでいくにつれ調節するやり方は後手々々の感が否めない。というか、豆にとってのベストポイントを探るというよりも、こっちの意図に無理やり引っ張ってくる、といった感じ。焙煎し終えた豆のハンドピックをしていると、父がブルーボトルの録画がある、というので観る。慨して、ガイアの夜明けとかそーゆー番組は好かない。

焙煎、カッピング、抽出、接客。妥協せず、高水準を追求する。それは素晴らしいことだ。本当にそれは素晴らしいことだろうか?ミシェル・レリスが「幻のアフリカ」でみたアフリカはいつも、人々はいい加減で、昼からタムタムを叩き、精霊の存在が色濃く生活の基礎に根付いている。つまり、今の僕らの基準が当てはまらない。それを当てはめつつある。僕は、その全く別の在り方にすごく惹かれている。惹かれているどころか、自分の内側を覗こうと潜っていくとわずかながら、確かにそれがあるのがわかる。

人はそんなに、高きを目指すことがよいのか。その高みは、本当に高みなのか。そのことをこそ、探らなければならないことなのだ。社会が差し出した「価値」ではなく、自分の裡にある「価値」を見つけること。


「美味しいコーヒーって何だ?」は、焙煎の深いところまで惜しみなく語られていて、焙煎屋の実情やコーヒーへの思いが沢山詰まっていて、本当に勉強になる。しかし、しかしだ。井ノ上×オオヤ対談のなかで、「コーヒー生産者が共に幸せになる近道」という話が、その解決はコーヒーそのものの「美味しさ」を互いに追求し、適正な価格で取引をする構造を作ること、と考えている。

この「価格」が問題で、そこが直接「ハッピー」に繋がってしまうことに強い抵抗を感じる。

非電化工房の藤村靖之ジンバブエを旅した時、昔は「あれほど日々を楽しむ名人だった人々が、(経済成長を先進国からあおりたてられ)口を開けば「僕たちは不幸だ」と言うようになってしまった。」と言っている。そのことが頭から離れていかない。

偽善だ、などと言いたいのではない。そんなことを言って批判したつもりになっている人のことなんてほっとけばいい。

僕は、やっぱり、人が今よりコーヒーを飲まなくなればいい、と本当に思っている。そして飲む時には僕が焙煎したコーヒーを選んでもらいたい、と思う。僕のこの志向は、現在の人口を賄えるものではないだろう(しかし、今ある飢餓は経済的飢餓である、ということである)。

ただ経済的豊かさとは別の豊かさを求める人々も、自らが求めれば締め付けられることなく自分が求める方向へ楽しく進める、それぐらいできたっていいじゃないか。多様性が保証された世界。




優子さんは包装が得意で、いつも誰かにプレゼントは自分で包装していて、それを見て包装専門店「Ho-So-(ホーソー)」という店を思いつく。「SOHO」のイントネーションでホーソー。贈り物のラッピングの代行、マスキングテープ、リボン、紙、ダンボールなどの販売、ハサミや糊なんか置くのいい。もう人間もラッピング、ということでニットなんか置いてしまう。そして、日々の情報を「ホーソー室」という名でWeb上で公開するのだ。店舗なんて作らないでいい。