2月12日

晴れ。日没のあいだ、靄のような雲が空にかかって星は見えない。


新潮の大江×古井対談を今にも眠りに落ちそうになりながら、図書館で。小説のなかの「わたくし」についてとても興味深く、話されていて、互いに他者の声を聴き、他者に自らを委ねることが必定なのだ、それがなかったら小説を書き続けることはできなかった。大江健三郎が初期の数作以後、自分の流れに抵抗するように書いていた、それは苦しいことであった、というようなことを言っていてそれも興味深かった。この対談を読んでいる最中、思い浮かぶのはやっぱり小島信夫のことで、古井由吉が「ポリフォニー」の言葉を発したときにも、やっぱり!と膝を打つ思い。

もちろんこれは僕の勝手な思い込みであるけれど、(こんなことは言い訳にしかならないし、みな押し並べてそうなのだから、わざわざ言うのはみっともないくらいしかないのかもしれない)小島信夫は他者の声を小説に取り入れるだけでは済まなくて、自分すら小説の中に放り込んでしまった。これは本当に凄いことではないでしょうか。作品を通しての印象しかないわけだけど、小島信夫は小説を書いてる時間は当然ながら、起きている間もずっと小説のことばかり考え続けていたから、小説が世界と同義になって、何を書いても小説になってしまった。こんなことは戯言だ、いま言葉にしたら急にこの考えが色褪せてきました。

「寓話」「菅野満子の手紙」は手紙が延々続いていく、それを作者の小島信夫が読んでいる、寓話では妹の手紙が出てきた途端、小説が動き出した。小島信夫は他者の声を小説に取り入れるでなく、他者に入り込む。入り込んでまるで同化したかのようになっていく。

本当だろうか?もう一度、寓話を読み返すことにする。


図書館に向かう途中、久しぶりの友達から連絡があって車夫にならないか?という面白い話をもらう。とても有難く、一瞬心が動いた。受けたらいいのかもしれない。でも、もう僕は動くと決めたのだからやるしかない。決めた途端、色んな話が舞い込んできたけれど、これはどういうことだろう。