2月6日

晴れ。


自己責任という言葉を初めて聞いた記憶があるのは小泉政権の時で、あの時はフリーターニート、この言葉はあの時使われていたか、そもそもフリーターニートのことだったかもう自信がないけど、フリーターが難民化して満喫で暮らしたり将来の不安を持っていることに対して使われたんじゃなかったか。

同じ頃、ニュースで八ッ場ダムの工事中止を取りあげて、ダム工事を請け負った会社の社員さんが現場でインタヴューを受けて「我々の生活もかかってるのに、どうなってしまうのか…。国にはしっかり対応してもらいたいです」と言っているのを見た時から、僕のなかで「自己責任」という言葉へのいかがわしさが生まれた。

労働を選択しなかったニートや、正職につかなかったフリーターが自己責任ならば、その職場を選んでしまった人も結局自己責任なのではないの…?


そして今、危険地域とされているところに赴いた日本人が人質として莫大な身代金を要求されたとき、そして殺害されたとき、またこの「自己責任」が口々に飛ばされた。そもそもあんな危ないところにいくからだ……

仮に、自分の意志で出向き招いた結果であることを認めたとしても、国は命を救うことは当然じゃないのか。それがたとえ、逆の立場の人間(この場合はテロリスト)であっても。なんとなれば、生存の保証が出自や思想や経歴なんかに決定されてしまうのなら、その枠を定める人間の心算如何によって全ての人の生存の保証はいつでも剥奪される可能性ができてしまう。

人は誰でも、生まれながらにして生きる権利を持っている。その権利は生来もっているものではなくて、長い歴史の中で獲得したものであって、だからこそなくしちゃいけない。

その権利を犯した人は、その人であることによって罰せられるのではなく、その人が生存権を脅かした行為をもって裁かれなきゃおかしいし、そのために法律が厳しい罰則を制定している。たとえどのような人間であっても、誰もその人の生殺与奪権を持ってはいないし、まずはその生存権を保証しない限りは僕たち自身の生存権さえあってないようなものになってしまう。


今回の件だって同じことで、もしここで自己責任が成立してしまうなら、自動車にはねられる危険を知ってまで徒歩で外出した人は自己責任で済まされることになってしまわないか。外出してはねられた人が自己責任を問われないのは、それが大多数の人にとって日常なされているから、というだけの理由じゃないのか。


結局、今、自己責任とい言葉の意味はポピュリズム、排他感情の変形にすぎない、そのことが自己責任という言葉にかなりいかがわしさを感じる理由だと思う。そしてその一方で、勇猛な言葉が飛び交っている。

「日本人には指一本、触れさせない」と言っているが、その「日本人」の範疇に自分は入っているのだろうか。