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啓榕社について

考えていることを忘れないように記しておく。

啓榕社は、僕にとって芸術活動としてやりたい。でもふたりの生活も維持したいけど働きたくないから、働いているふりをすることにした。労働を労働ではないもので包んで誤魔化している場の力に対しての意味もこめて。


こないだ、久しぶりにそういう話をしてばかりいた友達とまた話ができる日があって、そのときどんな話の流れでそうなったか忘れちゃったけれど、世界は確率にあふれていて、というか確率そのものであって、その結果の一つが僕であって○○君であって風越山であり信号であり銀杏の木でありビールであり……確率の一つ一つの収束がこうやって同じ空間に顔を合わせているってことが面白いし、そういう考えに引っ張られて色々考えたい。そういって二人で「わかるわー!やっぱりさぁ、」それで思い出したんだけど、人工知能か並行世界の話がなにかあってそうなった。別々の一人の人間がそれぞれいて(広くなれば、この世界という世界があって見えない隔たりの向こうに別の世界があって)それぞれの確率を生み出していくのではなく、うやむやした確率の結果の一つで同じ確率の別の結果が君だという別れているようで繋がっているこの考え方は、僕らを明るくさせる。


例えばこういうことや、自然(木の自然と同時に、空間とか時間とか全てひっくるた世界と同じ意味で)、自然を見つめること、存在ということ、身体の声にこそ耳を傾けること、小説や映画や音楽や数学や……そういうことこそをずっと考えていたい。


高野文子『ドミトリーともきんす』を読んでいたら、朝永振一郎という人の日記が引用されていて、

「…物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りものだ。…

  活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし、絵かきはもっと他の方法で運動をあらわしている。…」

絵かきなら皆がそうではないのはもちろんだろう。


自分が世界と繋がっていると実感する瞬間、そのとき、自分は世界の一部ではあるけれど、同時に世界と自分が主従の関係ではなくて自分という形で世界は現れている。それは、世界は自分の脳が作り出しているってこととはまったく逆だ。

僕は啓榕社という形で朝永振一郎が言う、「絵かきがあらわしている」ように自然を、世界を現したいというのが僕の希望です。