8月10日

台風が横を通っていくらしい。一日中、南から北へモザモザの雲が厚くて巨大な黒雲の下でともに流れていって、雨が降ったり止んだり大抵のあいだ、降っている。


朝から雨が降っていないのを確かめて早く起きて小屋に行くものの、すぐにぱらつき始めてしまって仕方なく台風に備えて屋根のブルーシートを新しく被せて補強するだけにする。最近、休みっちゃあ雨ばかりで一向進まない。残りの資金で賄えるか、必要な資材をリストに上げて計算してみる。外壁杉材をどうやって古材を調達するか、芝屋根をどう抑えて、かつうまくやりおおせるか調べものをする。

文庫のために新しく本をあつらえて佐々木くんのところに持って行ったら、カフェは休みだった。帰りにコンビニで雨なのにソフトクリームを買って食べて、ソフトクリームは1/3でいいからコーンが食べたいなと思った。蓋ありますか?て聞いたらつけてくれたのが、コーンでできたカップじゃなくてプラスチックのただの蓋で内心ひどくがっかりした。


先日財布を忘れた狐で支払いを済ませたついでにコーヒーをもらい、松浦くんと落ち合い話をする。

「(例えば脱原発の人たちも)もっとうまくやれる方法を探したほうがいいと思っちゃう」

「取るに足らない小さいことだなんてこれっぽっちも思わないけれど、例えばイスラエルの侵攻だってこの長い歴史にしたら、(親指と人差し指の平をくっつけて)ほんのこれっぽっちのことで飲み込まれちゃうじゃん?」

僕の中で、「異議あり異議あり‼」と激しく揺さぶられるものの、この時僕は衝動を形にできず(とつぜん殴ってしまう、とかになってしまうとかならあったかもしれない)、ただ

「たとえばさ、そこで、なら代替案を出しなさい、と政治家が言うなら、僕たちはそれに答える義務はないはずだ。だってそれを考えるのが政治家のまさに仕事だからだ。映画館にいって、もっとまともな映画を見せろ!て言われて、だったらお前が選んでながせ!とは心で思っても言ったらおしまいじゃん。反対する人を代替案がなければそれを表明してはいけない、なんてのは詭弁なんだ」と言って満足していた。

一日たって夕飯を食べ終わって本を読んでいたら突然、「あ、そうか」と腑に落ちてパァッと目の前が開けた。「この瞬間は、長い歴史の中ではほんのささいなものとして飲み込まれてしまう」というのは嘘か、嘘でなくても人の感じている感じ方だと刷り込まれている時間感覚だ、つまり学校で習う歴史という時間の捉え方で人が捉えている時間じゃない。

だから僕はあの時、「それは人が本来持っている時間じゃないから、システムが要請する時間感覚だから、それはやっぱり飲み込まれるようなものではない」と今だったら、もう少しまとめてうまく言う。うまく言うより、自分のこの思考に正確に言う。

戦争や災害で悲惨な目にあっている人たちに想いを馳せつつ、偽善だという声に耐えて今この普段の生活を送ることを、本気で考える。

「いまこの瞬間にも苦しみや悲しみで背骨を折られて、あまつさえ命を落とす赤ん坊までいるこの瞬間に、こんな風に生活を享受してていいのか?」という自問、詰問に答える答えはまだない。でもいま言えるのは、「いまこの瞬間に、幸福の絶頂にいたり、日々の安寧に心から感謝している人たちもいる。今の僕はどうか?」

この設問は一緒に語られることじゃないだろうか。僕はただ自分を一生懸命になることか、と思いはじめている。