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4月8日

松浦くんという男は、ほんとにどうしょうもない男だが彼は可能性をとにかく沢山手の内に置いておきたいと思っている。そして、みんなに諭される、というか怒られる。

可能性を無限に持つということはすなわち何もしないということになっている。大工の弟子に就職したら、喫茶店は開いてられないしラーメン屋にもなれないし、情熱大陸には出れるかもしれないけどTVのディレクターにはなれないし、競馬の騎手にも多分なれない。というか何も選ばなくても確実に日は過ぎて行くので、何をしなくたって可能性は無限ではない。大工の道に進んだために開ける可能性、ということはある。でもそれは他の道でもそうなので結局選んでも選ばなくても、可能性は常に有限だ。不死になればいいか、というとそうでもなくてそうでなければできたことができなくなるから(例えは悪いけど、幼くして死を知る。とか)やっぱり可能性は無限ではない。

とこんな面倒なことを書き連ねてきて気づいたのだけれど、いま書いたこと全部が軽いというか内容がないというか、どうでもいい。多分だけど、可能性は無限か有限か。それを考えることはただの言葉遊びにすぎないのだと思う。それから(普段こうして話している時に考える)可能性としているもの自体が間違っていて、可能性は実はもっと違うものだ、ということがある。


「松浦くんの可能性」なんてことを言うのは、保坂和志が『アウトブリード』でこんなことを言っている。

「…世界のどこに生えている木も言語の「木(ki)」とは似ても似つかない。が、それが…思考の特性で、ほとんど必然的に〈モデルを使って世界に関する像を作る〉…

(ところで、世間では頭がいいと言われている人ほどモデルを使って考えることがうまい。そして往々、科学者も自分の分野で知っている相当貧しいモデルを使って…説明したり解釈したりする…。もっとも貧しいからこそモデルと呼べるわけで、…)」


という文章を読んで、松浦くんが無限の可能性を信じていられるのはまさしく具体的に考えないからできることなんだろう。保坂和志は「貧しい」と言っている言葉は、苫米地英人が悟りを説くときに「抽象度を上げる」と言っていることと同義だと思う。そして僕は、釈迦の悟りと苫米地英人の語りにものすごく惹かれつつも、やっぱりそれは「貧しい」んじゃないか、の方につきたがる。


松浦くんは、僕よりずっと釈迦に近づいているのかもしれない。


抽象度を上げる、というのは例えば動物と犬、猫なら動物のほうが抽象度が高い。猫とアメリカンショートヘアーなら、猫のほうが抽象度が高い。抽象度が下がるほど、付随する情報量は多くなる。そして、抽象度が下がると矛盾が生まれる(犬と猫は同じ動物なのに、違いが沢山ある。でも動物という括りなら、無矛盾だ)。

「.わたし」も同じで、そして「わたし」に付随する情報は「わたし」にとって重要なもので構成される。苫米地英人が言うには釈迦は、その「わたし(つまり釈迦)」にとって、言葉どおりにあらゆる全てが重要になってしまった。それが悟りだった。


僕は混乱しだしている。

僕は極個人的な体験を語ること(抽象度が低い)が小説の特性で、個という穴から普遍を覗きみる、その一端をでも掴むことが小説だと思っていて、全てと同一化した釈迦の悟り(抽象度が一番高い)とは真逆の方向を向いていると感じていたのだけれど、それは本当だろうか。

モデルを使ってすぱっと物事を言い切り、頭が良く見られたいと常日頃言っている松浦くんは貧しいと思うし、可能性への違和感を形にしようとしていたけど、それはもう「君はアホだ」の一言で済ませてしまえばいいか。

小説って、今は自己を肥大させるものではなくって自己を削っていく、塩で溶けてくナメクジみたいに小さくしていくイメージが今の僕の小説観で、苫米地英人の話をネットで見ていて小説を書くことは抽象度の低いところに立つことだと思っていたけど、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。

頭の中では閃きがぱっと輝いて目が見開いたのに、言葉にする段階で急速に灰色に変色してしまう(言語化のせいではなくて、自分の下手さのせいだ。すごいもどかしい)。