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4月5日

曇り。夜から雨が降る。


イヌイットが何百もの雪を表す言葉があるように、日本もまた何百と風を表す言葉を持っている。その数は二千にのぼるというけれど、イヌイットの話を聞いたときは彼らが皆、そういう風に雪をみているんだ、凄いなぁ。どういう風に見えているのだろう、と観ているつもりになってみたりしていた。当の日本人になってみたら、風を何百も区別する、といこと自体に驚いた。にわかに風をの違いを意識してしまう。


『アウトブリード』をひっぱりだしてきて久々に読み返してみて、最後に読んだのは五年以上前のことで、書き出すところを探したりしてみると、その中で樫村春香の言葉を引用した箇所があって、そこにはこう書いてある。

「…それはひとことでいえば、人間の存在を、その価値や意味や未来によって決定するのではなく、その無価値さや無意味さを含めた現在的存在において、まるごと肯定ないし受容しようとする思想といえよう」と、書いている(「無価値さや無意味さゆえに(本文、傍点)肯定する」と誤解しないように)。」


最近ずっとこのことを想っていて、あらゆる人や状況をありのまま受け入れることに、たとえば自分の現況に対してさえそうあろうとしたら、僕はただただ流されて終わるのか?などと思っていたけれど、やっぱりそれはそんなことはなくて、受け入れることと志向し選択することは違う、てことを今日風呂に入ってて今更ながらたどり着いたところだった。無関心な神を信仰する宗教者が為すことを考えてみる。

そしたらこんなことが書いてあって、はじめてここを読んだ気がした。何度か読み返しているのは間違いないのに、僕はここを全く読めていなかった自信がある。著者は何度でも暗唱するという。

ここを書き写して、思考を真似たいわけでは全然ない。気に入った小説を、頭から最後まで全部書き写すくらきでないと、お前はすぐ忘れてしまうぞ。とまた僕は言う。いい加減、自分の分をわきまえよ!と。

それなら、弁えてからまた先に行けばいいのですって。肯定する、それから先に行くのです。なんだかもうわからない。書けば書くほど自分の下手さ加減に打ちひしがれていく、そのことまで言葉にしてしまって、こう書くことがまさに下手な証になる、という底のない堂々巡り。


寝る。