3月28日

晴れ。暑い日。梅が満開していた。


3日めのペーペーが、社長と新しく機械を作ってもらうのにどんな風がいいか、臆病者ゆえの遠慮はあるけれど話す。

帰るとお義母さんがご馳走してくれた。


保坂和志『未明の闘争』を読んでいて17章?村中鳴海が出てきたところにくると、このあと村中鳴海はこの小説をぐっと引っ張っていくことを一度読んでいるから知っていると突然、村中鳴海は小島信夫『寓話』の途中で現れた妹がよこした手紙の、その妹と同じだ、と思った。『寓話』で妹が出て来たとき、この小説が動きだした!と感じた。あれこそ小島信夫がしきりに言っていた(森敦だったっけ?もともとは菊地栄一が言っていたことだった)ポリフォニーだったんだと今思う。中心だとおもっていると別のところに中心が生まれてずれていく、ずれを僕は小説においては小説が自ら動く運動と同義に今は捉えているようだ。

村中鳴海が出てくるまで200頁過ぎていて、アキちゃんも出てくるしゴリャートキンの話もあるし、どこをとっても面白い。それでも村中鳴海が出てくると「小説が動きだした!」と感じるのはどういうことだろう。

『未明の闘争』は、カタルシスに揺さぶられて涙を流す箇所なんて一ミリもないけれど、もう感動で何度身体がブルブルっと震えて目が潤んじゃったかしれない。村中鳴海の話す言葉が何ページにわたって続くところなんて、たまらない。中心がずれていく、となるとずれただけの道筋はあるからこの小説はポリフォニーではないかもしれない。むしろ、それぞれの中心がくっついてもいないでバラバラに立っている、というほうがしっくりくる。


「不二子ちゃんの、どうやったらあんな胸に育てられるんだろう?」と言うので、「それは男の妄想でしょう」と別にうまくもないことを言ってしまった。