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1月4日

あけましておめでとうございます

年が明けてから天気が続いている。1日の早朝は曇りだった。


大晦日のみお休みで、年末から一週間で暇な月の一ヶ月ぶん働いた。大晦日は久しぶりに林っさんの家に行きコージも交えて盛り上がる。「うちのお子様ランチには、きちんとお子様を使用しておりますがな。」


未明の闘争の中でアキちゃんと私が『分身』の話をしている中で、ゴリャートキンが感じている絶望はペテルブルクの凍てつく、「ほうっておいても死ぬ」寒さの中であり得るのか?と問答していて小説を読む楽しさを小説を読みながら知るわけだけど、その時に私は、寒さと絶望は異質のものだけれど自分の身体は一つしかないから一つの身体の中で混同するということではないか。とそう言っていて、そうか!と思考が開けてその混同が重要なのではないか、それは統合して秩序だてるのがよいのではないんじゃないか、と感じた。作品中でもそう言いたいように感じた。多分、そうは書いていなかった。


何年かぶりに初売りというものに出掛け、久しぶりに座光寺とアップルロードのブックオフだけをハシゴした。しも全て100円コーナーのみという枠を定めてさまよい、20冊ほど購入。大晦日の林邸で『東映ピンキー&バイオレンス浪漫アルバム』などという一体、飯田で誰がこんなの読んでるんだ話を聞かせてくださいと言わせるニッチな特集本をブックオフで見つけたという話を聞いたからである。アップルロード店は小説が座光寺店に比べて充実しているが外国小説の特に文庫に関しては座光寺店に軍配があがる。しかしアップルロード店は下伊那で唯一早稲田文学を置いているのだ。

インターネットが発展して、情報に触れる機会はフラットになっているなんてそれは嘘だ。


こないだ全国紙の雑誌を見ていて、あまりの田舎への当てはまらなかにようやく気づいた。全国紙というのもまたローカル版なのだ、ということがはっきりとわかって、じゃあ同時代性って一体なんだ?そんなものは本当は無いんじゃないか、とさえ思うくらいに雑誌で挙げられた流行や店舗のありかた(料理雑誌を読んでいたから)はこことは乖離していた。それは東京だからできるのだ。

どちらの側もそれを忘れてたらいけない。坊主のお客さんがリニアができるからこれからの店はこのままでは負けると力説していたが、勝ち負けの基準も曖昧であるうえに結局、飯田を東京の一部みたいに考えるからおかしなことになるのだ。何が一番飯田であるかと言ったら、この土地以外に何があるのか。だいいち僕は他の店と勝負などしていない。なるべく、その土俵にのらないように気をつけてるくらいだ。阿呆らしい。