9月6日

晴レ。雲ハ切レ切レノ秋模様ニ近クナル。


『ペレイラ』を読み進めて、四時に間に合うように歩いて歯医者に行って、上の歯列の歯石をとってもらう。時々ピリっとくる。虫歯?痛いのはいやだ。


その前にシャワーを浴びてぼんやりと、生きるって何だよ。と考える。何か目的や成し遂げるものがなければ生きたことにはならないのか、と。

それを希求する自分はとても強くある。でも、このままでは僕は何者でもなく死ぬだろう。でも、世の中みんな大体そんな人達が世界を世界たらしめてきたんじゃあないのか。

そのことで、自分が何者でもないと感じることに納得するわけでもなく、それでいいじゃないか!と強く思えない(ということは、それを他人にも反映してしまいがちな自分がいる。嫌だいやだ)こともある。

生きる、にも色々あって、ただ生きる。とか、人は生きて死ぬ。とか、そんなんじゃあ生きてるとは言わねぇんだよ。

なぜ人はただ生きることができない、あるいは許されないのか。この問いは同時に人はそもそもただ生きるだけじゃない生き方を望む生き物であることも僕に示唆する。突然、あぁそうかと『HHhH』のことで腑に落ちる。


「僕」が史実の些細な部分=車体やコートの色、会話の中のほんの隙間に漏れる言葉とか、同じ名前が関連なく重なってしまうこととか、に拘らざるを得ないことと、名前も人生も受け継がれずに消えて思い出されることももうない沢山の人たちのことをこそ描きたい、と小説の最後で言うその心情はきっと、同じところから来てる。というか、細部に拘ることが、その人たちのことを描くことになるのだ。

物語の都合上こうしたほうが見栄えいいから、と「創作」してしまうと、それはいま書かれているひとつの作品が要請しているものに忠実であるわけではなくて、むしろ作品の外にある、「物語」という言葉がもつ枠に従属させることであって、作品自体を殺して固有性を奪うことになってしまう。大きな物語の流れを淀みなく進ませるために、その世界に息づくものを飲み込んで流し去ってしまうことになる。レッテルを貼って個人を見ないようなものだ。それは『HHhH』の中で描かれるナチスの行動と同じことじゃないか。だからこそ、「僕」はあれだけ細部に拘るのではないか。そうすることが、物語には出てこない、でもその中で確かに生きていた人達を裏切らないことになる。

ふと、「世界を肯定する」という言葉が浮かぶ。


鳥肉を自家製のローズマリーオイルでソテーにして、コンニャクと人参の煮物。ローズマリーとかいってお洒落で贅沢な気分を味わいつつ、自家製が一番安くあがる。


店に行く途中、交差しようとしてぴょんぴょん跳ねるアマガエルとぶつかる。

前半は驚きの暇さだったけれど、後半で少し盛り返す。