9月1日

曇リ、時折激シク雨降ル。


11時に起きてトキワで宮崎駿『風立ちぬ』を観る。隣の人が天むすらしきものを二つ、食べていた。その油の匂いがちょっときつかった。

最初の、飛行とともに上り、ザーッと田んぼを照らし出す日の出。全編に渡って見られる群衆の動き、埋没する登場人物。地震の波。激しく打ち付ける雨水。電話を受けて慌てて走りこける二郎。飛行艇がたてる波。風に舞うパラソル、脱出するパイロットが落下傘を開く。うねうね柔らかい飛行機。名前を特定できるほどに植物まで細かく描かれる草原や街並みと、夢の中、ドイツでのそれらと描き分けられる背景。煉瓦の道。飛行機の細部。雲の色。デッサンや計算の、筆跡。

あまりに密度の濃い画面の連続を観るだけで興奮する。『HHhH』を読んでいることもあって、なぜこの場面を選びこのように描くのか、考えざるを得なくて、するとそれぞれの場面はその漲る有り余る力を発散させたがっているのに、その力が一つのうねり=ストーリーとなってはいかない。最後の「生きて。」は、僕にはわからない。ただただ目の前で溢れてる画面に魅入る。

とはいえ、結核の菜穂子の隣で煙草をふかし、どんな状況でも飛行機のことしか頭にない二郎は愛がない、自分勝手すぎる、というのは映画に対する批判としては的外れに聞こえるのはどうしてだろう?菜穂子のような女性は男の頭の中にしかない幻想だ、ということは映画を観ることから生まれたものではないと思う。これは『H』で執拗に思慮される作者の態度というものを、享受する側にもあてはめてみよう。


シシャモを焼いて、回鍋肉ふうの炒め物と味噌汁。

夜、雨が降った。店は、ヒマ。