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6月4日

晴れ。湿り気を伴った風が西からずっと吹いている。徐々に雲が、夏みたいな雲が山の向こうにかかった。

しかし、入道雲はいつも向こう側で、自分のそばにはこない。


リンゴ並木をぐるっと回って、サリョのテラスで作業しようと思い、椅子が深くてちょっとてーぶるが遠いなぁ、とふと斜向かいをみるとテッシンの壁に合計四カ所、緑の植物で埋め尽くされた長方形が拵えてあった。いつ、できたんだろう。先越された!とちょっと悔しい。でも、やっぱりあれいいな。

その壁を見ていて、想像でそこに椅子やテーブルを貼り付けてみると、ガラリと意味が変わった。緑だけで覆われている壁は自然の人工への侵食、いや人工が自然を取り込むということを人工の中で行うことで境が揺らぐというか、森の中に佇む小屋と逆になっている。これはもっとじっくり考えよう。そのことではなく、椅子やテーブルがでてくるととたんに自然と人工から離れて、もういっこ別の重力が生まれる、という全然別のものになってしまった。これすごいなぁ、こうなるとアートに関わる位置に行くのか、アーティストはこういう風に考えるのかなどとぼんやり見ていた。

その緑の長方形があしらわれた壁との間にはリンゴの木が植わっていて、少し強い風が吹いた。それが目に入って、突然うたれた。動悸が激しくなった。しばらく、これはどういうことなんだろう、と言葉を探しながら、僕は感動していた。

それから歩いて図書館に行く。カルペンティエール『失われた足跡/時との戦い』、百年文庫『架』。


仕事帰りの優子さんに図書館まで迎えに来てもらい、そのままセラードに行く。その間、さっきのことを話しながら言葉にしてみた。

最近、僕は自然に向かいたい、社会の中ではなく社会の外へ思考を飛ばしたい。ここにいては自然に触れられない、と思っていた。それがあそこで風が吹いた時に、自分が自然から逃げようもなくいつも包まれている、っていう単純な事実に気づいてしまった。

常に風がふき、空が高くあって、木や草が土やアスファルトからはみ出し、空気が充満していることに気づいて、そのことになぜか少し畏れみたいな感情が確かに湧いて出た。

そして自分の手を見て、自分の身体が一片の人工物もない、全くの自然から作られていることに思い至って、でも今はこうして自然と自分が離れていると思っていることに、自然から生まれながらこうして自然を対象として接していることに、なにか興奮とか嘆息とか興味がぶわーっと身体の中でいっぱいになって、居ても立ってもいられなくなってしまった。

なにをもってか、「自分」が「自然」から分離されているーもしくは、そう錯覚してしまうーと思考の基盤みたいなとこまでそれが浸透していて、それはやっぱり言語の効果なんだろうか。


みたいなことを話したら、優子さんが「私とジンドウ君も、(自然に対してそう思うのと同様に)全然一つだなんて思わないもんね」と言って、僕はハッとした。

逆の回路も人間にはある。手術の映像や人が話す歯医者の話を見聞して、自分自身に同様の痛みを感じる、というアレ。



なんか言葉にしたら途端につまらなくなっちゃったけど、あの時の感動は、本当に衝撃だった。

図書館に向かう途中の歩き方のことで、武道において言われる歩く、ということは果たして実は自然に備わっているものを忘れているのか、それとも訓練の果てに生まれる自然(じねん?)のものなのか、と考えた。


やっすいワインで当たりを探して後藤酒店で買う。二人で一本空ける。カルボナーラを作る。日本酒入れたら、旨かった。