〜2.12.2018

今日(最近)観た映画
「ありがとう、トニ・エルドマン
」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」「わたしたちの家」「デヴィッド・リンチ アートライフ」「宝物の抱きかた」「ハドソン川の奇跡」「オーバーフェンス」「岸辺の旅」「サウダーヂ」「メッセージ」

最近読んだ本
「グァバの香り」「予告された殺人の記録・十二の遍歴の物語」「族長の秋」「植物は知性を持っている」「けものになること」「アメリカ」「惑わない星1・2」「ゲルハルト・リヒター(ワコウワークス)」「千の扉」「壁抜けの谷」「珈琲の建設」「ハンターハンター」「ペドロ・パラモ」


12/15

朝、夜中に何度か起こされたりしてウトウトしているうちに家から人がいなくなり、なのに寝室の障子を音もなく開けて布団の脇を通る者がいる。目を開けたら、誰もいなかった。そんな夢だかなんだかわからないものから、僕しか生きていないことを知らない女の子といたり、怖い夢ばかりどんどん見た。

焙煎。長時間焙煎でブラジル。モンテアレグレが、ほんとにミルクチョコの匂いがして驚いたので試し中。赤石商店さんとリッピングストアさんのコーヒーに合わせて完成させたい。明日、試飲して決めることに。

フェイスブックで出店(この言葉、使いたくない。が、他にまだ思い至らず。)の告知をしようとして、「神藤啓介」と「啓榕社」、2つあるのがややこしい。何をどっちで書いたらいいかわからないのだ。みんな、店の名前と自分と違くて戸惑うことはないのか?それはすごいことだ。とぼんやり考えていたら、いま僕が啓榕社でやってることは、プライベートでやってることをただ社会にあわせた形にしているだけなので実際には僕と啓榕社は一つなので、それも当然のことなのだった。

啓榕社は、いろいろやりたいことをできるように、コーヒー屋っぽくもあるし出版社ぽくもあるし、結社の響きもあるし、名前が中身を縛ることをきらってつけた狙いもあったから、啓榕社がやることはまんま神藤啓介というひとりの人間がやること全部入っちゃうように、最初からなってるのだった。とりあえず、フェイスブックをどっちか一つにまとめることにする。で、迷っている。

25、6年ぶりにミヒャエル・エンデ『モモ』を読み返しているが、とんでもなくいい。僕が思うことなんて殆どここに書いてあった。

想像の冒険に熱中するあまり、本当の雷を怖がるのを忘れてたり、現実を物語として捉えることで見えなくなるものがある。これからしばらくはみんなに、「モモを思い出せ!」と叫ぶことになろう。


10/5

晴れのち曇り、夜になると同時に大雨。台風がどこかにいるらしい。


台風が寒気に?ぶつかると温帯低気圧に変わるんだって、ということを初めて知った。ふぅん。台風は目で見ることができるが、寒気を人はどのように見ているのだろうか。きっと、肌なりなんなりで感じてるとは思うのだけど。


10月からカフェの営業日が火・水の週2日になりました。松浦君だったと思うのだけど、先週蟻の話を聞かせてくれた。働きアリには必ず怠けてるやつがいる、という有名な話の原因は、アリには卵か女王を24時間世話しっぱなしの役割のアリがいて、相当な重労働なわけだから死んでしまう。すると、今まで怠けてたアリが替わりにそこに入るのだと。君は、その怠けアリなんじゃない?

と言われてなるほどなぁー、と感心して、やっぱりこういう僕みたいな人間は今こそ動かなければ、その存在価値がない!というわけだけど、同時に自分としてももうちょっと店を開けたいなぁ同時に思っていたので願ったり叶ったりなのだった。


綾子ちゃんからコーヒー豆の差し入れを頂いて、みんなで試飲してみる。

美味しいコーヒーは世の中に沢山あって、ことにサードウェーブの流れで自家焙煎の上質なコーヒーがあちこちで飲める。コンビニコーヒーは論外として、そんなコーヒー屋さんのコーヒーを飲んで最近は「美味しい。美味しい、が退屈な味だなぁ」と思うことが増えた。

そして昨日もらった焙煎機で上手に焙煎された(味からして、おそらく直火焙煎だった)コーヒーは雑味のないクリアな味のコーヒーで、美味しい。美味しいのだけど、……。

この、「……」は何なんだろう。


家に帰って、風呂に浸かりながらばんやり考えていたとき、いつもの「コーヒーに限らないが、いまのコーヒーの流れに抵抗しようとする違和感は、どこからくるのか?」これを考えると、毎度毎度の生活と労働の違いや生きる価値といった考えに繋がっていくのだけど、そんなのがぐるぐる発火しては消え、膨らんでは萎んでいく。そんなのが続いている中で、「流行と文化の違い」なんじゃないかと閃いた。

流行か、文化か。とはいっても社会の流れとかではなくて、一人の人が向かう姿勢の問題である。


6/26

夏の雲、曇り。夜から雨。


夕方過ぎから鼻の奥が乾いて炎症っぽい。夜、松浦くんや綾子ちゃんと会うつもりだったが、断念。ヨーコたゃんがヨーレン菌にかかっていたし、様子見る。


水木しげるの昭和史第1巻を読み直している。

「田中内閣は“積極的な”政治」を打ち出していた。大正14年に普通選挙法と治安維持法が成立。このあたりから「終戦までの言論弾圧の布石は完了した」といえるとねずみ男は語る。

中国・南京政府の北伐から日本人居留民を守る名目で3度、出兵。「こういう“積極的な”外交政策は、内政における景気刺激策としての軍事費の増大とも連動している」、「とにかく日本は軍事的にも経済的にもアジアに進出して、権益を拡大しようということじゃよ」。

今の状況とだいぶ似ているようにみえるのは僕だけか。積極的、という言葉。こんなに言葉を空虚に扱うことができるのか、という驚き。

違いがあるとするなら今の政府が目指すのは、新しく権益を獲得するのではなく、かつて日本が持っていた権益(事実持っていたかどうか、他国がどう捉えているかは関係ない。それがお花畑であるにせよ)を取り戻したい、ということのようにみえる。軍事的にも、というところはいささか当時のことはわからないけれど、いまこそ政治も軍事も直接、経済と連動していて、日本が軍需産業に手を広げているのは戦争うんぬんよりもお金を見ているんではないか。

そののち満州某重大事件がおこって、陸軍は力を拡大していく。歴史は模倣するのだろうか?


バーテンダー時代に耳にした、僕が腹立たしくて仕方がなかった、忘れられない話のひとつは、ある客が「どっかの国が戦争を起こしてくれれば、日本も潤うんだけどねー」と言った一言だ。

(でも、普通にこんな田舎で生活していてそんな感覚を持つことがあるだろうか。この人は、ただどこかの雑誌を読んだか、訳知り顔のコメンテーターの話なんかを右から左に受け流しているだけだったのだろうと思う)

参院選を控えて、政治参加を呼びかける人たちも増えてきた。選挙に行こう、と。

選挙は、僕らができる政治活動のなかでもほとんど重要なことじゃないと思っている。なぜなら、あれは組織であり、役職であって、匿名なのだから。

僕がやっている活動は、ある意味すべて政治活動だ。なぜなら、僕ら民にとって、生活の在り方を考えて行動することが直接政治に関わることだ、と僕は思っているからだ。というか、それこそが政治を動かす一番手っ取り早く確実な方法だとさえ思っている。誰か一人の英雄を望むより、組織を支えている僕ら一人一人の意識を変えること。

僕は選挙で政治が(自分たちが望むように)かわると、全然思ってないのだ。僕ら自身が変わることが、政治を変えることだと僕は思っているらしい。

選挙があるたびに、あなたの一票が社会を変えるという。でもその社会を変える人間があなたではない限り、あなたが望むようには社会は変わらないだろう。選挙に行こうと叫ぶ、投票に行く。そして、それからあなたは何をした?本当に恐れられてるのは、僕ら一人一人が考えることだ。投票なんて恐れてはいないだろう。なぜなら、最終的にはその仕組みを変えることができる権力を彼らは持ってる。どうしていま、18歳まで選挙権が拡大されたか、考えてみること。

冷房の効いた部屋で馬鹿でかいTVから流れてくるワイドショーをみて、温暖化ヤバいよ!何とかしないと。政府は、何をやってるんだ?

あ、でもこの候補者、温暖化をストップさせるって公約してる。で、投票。開票、当選をTVで見て、その後の動向はTVに出たとき知るくらい。今日も冷房を効かしてる。のほうがヤバいよね。


6/24

曇り、のち午後から雨。


夜寝る前に、ふと思いついた時に独学の活元運動をやってみる。かれこれ一年になる、でも身体が気ままに激しく動くまでいったことがなかった。それが「あなたの管」でふと目に入った活元の動画を見てから誘導運動をそのようにしてみた。

今までも、背中というか背骨がわずかに動きたがっているのはわかったのだけど、あまりに細か管か弱い揺れで、その動きを意識しようとして掴み損ねてきた。それがこないだ、はじめて身体が意思から離れて動いて、それを観ている自分がうまれた。

昨夜は、昨夜もはじめはわずかな揺れで、それを僕の意思が握って止めてしまわないようにそっと、でも取り逃がさないように観察するうちに動きは段々大きく、またいろんな形に変化して、最後は今までなかった縦の波打ちがきて、落ち着いた。

そのまま寝ようと目を瞑っていると、背中は勝手にビクビク痙攣したりうぞうぞ蠢いていた。今までもなかったわけではないけど、これだけ自由に身体が動いたのは初めてだった。

朝起きるといつも古傷の腰痛があって腰が反れなくて背中が硬くなっていた。それが、起きてみて「あれ?」と驚くほど、柔らかくなって腰も痛くなかった。

昼間、動いてるうちにまて少し元に戻った。

6/18〜22

18日から結婚式で東京へ。泊まりが新大久保で、みんなで韓国家庭料理屋へ行く。マッコリがうまい!肉もうまい!夜10時を過ぎて道を歩くと、画面の向こうで見たような多国籍でここはどこだ⁉︎という雰囲気が、ちょっとびびるとともに頭のどこかが興奮してくる。もっと色んな店に入りたかったけれど、疲れと満腹で帰宅。


7時にはみな起きて、もうお別れ。途中まで一緒にいき、友人らは朝からラーメンを3杯食うのだ!とゴールデン街へと消えていった。映画に行こうと思い調べると、9時から『帰ってきたヒトラー』がやっているので行ってみると満席だった。

渋谷まで出て、ポールバセットでエスプレッソを飲んでみる。すっぱいー!これも飲みつけるうちに慣れるだろうか、アイラモルトアブサンみたいに。臭いのって、ちょっとでもそういうのとは違う気がするしな。酸っぱさの後から色んな甘さや別の酸味も感じられるが、ちょいこの浅さは僕にはきつい。いつかリベンジじゃ。

ユーロスペースで、「FAKE」と悩んだ末、時間の都合でペドロ・コスタ『ホース・マネー』を観る。

……とんでもなかった!この映画が観れてよかった。映画のリテラシーがなさ過ぎる自分が残念でならない。

リテラシースノッブで偏狭な視野しかもたらさないのなら、そんなの鼻かんでゴミ箱にポイすればいい。でも、間違いなく素晴らしいのはわかるのにそれを拾えていない実感を持ったことがあるなら、この感覚はわかるだろう。つまり、リテラシーとはただの歴史や知識ではないのだ。対象への能動性とでもいったもの。ただただ足りない自分は、とにかく身を乗り出して(実際には椅子に深く沈んで)少しでも見落とすまいと観るしかない。

影のなかに刺す光の方向と数。画面両端の暗闇。そのなかで背高く聳え立ち、足を屈めて小さく横になるヴェントゥーラ。彼の震える掌がペチペチと当たる音、息遣い。詩を詠むように語られる言葉。白髪の、くるくると丸まった髭。いまはいない男。つじつまは、わからない。こんがらがった時間、そこを彷徨う人たち。暗い森。配置される人たちの、その配置。歌。アピチャッポンもそうだった、なんでこの人たちはこんな音楽を見つけてくるのだろう。歪んだ身体。赤いパンツ、それを囲む兵と戦車。廃墟。暗い建物、明るく硬質なエレベーター。動かない兵隊。尻をかく。エンディングの音楽。

ああいう映画のあと、普段どれだけ自分が受動的に映画に寄りかかっているのかわかる。集中とは、圧倒的に能動的な受動性だ。


火曜の喫茶、高橋さんと神田さんが来店。結局、また僕ばかり話してしまった。神田さんは野口整体合気道もやっている、僕がやりたいことをみんなやっている!「身体に戻らなければ」と同じことを言っていた。そして、神田さんはそれを実践している。背骨の話をする。

野口晴哉は、神は背骨だと(これは僕の記憶違いかもしれない)、神によって僕らは動いてるけれど、ほらそれを見ることはできない。(と言って、肩越しに後ろを見ようと上体を捻った)神はいつもどこか、後ろから見てるっていうのは、背骨だってことだ」

その話を聞いて、前の月曜日、いまiPhoneのメモで書いている小説?のなかでちょうど背骨の話をしていた。そこでは足の先の骨の数は多いから緻密で柔軟な動きができる、というかしたほうがいい。それは人の背骨に比べて、猫の背骨の数が多いことであのしなやかさと滑らかさを持った動きが生まれるように、というその譬え話をしていたばかりだった!

というのも、熊楠といえば猫楠だ。「だから熊楠も、猫だったんですよ」と思ったけど、言うのを忘れた。背骨の話、もっと聞きたい。


朝方、夜寝る前に食べたせいで目がさめる。布団を剥いだら腹のあたりがすわり、と冷えて「あ、これはくるかな」と思う。また寝て夢を見て目がさめると、すこし鼻が詰まっている。やっぱり、きた。しばらくして、消えた。